「新羅さーん…」
「どうしたんだい美尋ちゃん、今日は元気がないね」
もはや日課となった、岸谷邸への訪問。
普段だったら新羅さんやセルティに会える嬉しさで元気いっぱいなわたしも、今日ばかりはいつもと違う。
「もしかして手首痛む?」
「あ、違うんです。手首は、大丈夫です」
「そう、なら良かった」
落ち込むようなことを言われたわけじゃない。傷つくようなことを言われたわけでもない。
けどなぜか心がもやもやして、そんな状況だから授業にも身が入らなくて、今日はいつもより早めに新羅さんの家に来た。
セルティはわたしと入れ違いで仕事に行ったらしくちょっと残念だったけど、新羅さんまで仕事に行っちゃってなくて良かった。
「…うん、あともう少しで完治かな。痛みももうそんなにないでしょ?」
「…あっ、はい。もうほとんど痛くないです」
「よかった。でも最後が肝心だし、もうしばらくは来てね」
「はい」
包帯をハサミでジョキッ、と切る音で、思考が現実に戻された。
あとちょっとか。うん、手首が治ったら、まっさきに静雄さんに教えよう。
「で、どうしたの?」
「え?」
「何かあったんじゃない?」
顔に出てるよ。
そう言った新羅さんは、わたしの隣に座って心配しているように笑う。
意識してたつもりだったけど、そんなに顔に出ちゃってたかな。
「僕でよければ相談に乗るよ」
「…悩みってほどではないんですけどね、」
「うん」
「新羅さんは、自分の友達とか、大切な人を悪く言われたらどう思いますか?」
行き場のない不安を抱えたまま、真横に座る新羅さんに問う。
すると少しだけ驚いたような顔をした後、新羅さんは口を開いた。
「いい気はしないね」
「…わたし、昨日言われたんです」
「何て?」
「自分の見たものを事実だと思ってないか、って感じのことを…」
意味もなく手遊びをしながら、昨日のことを思い出す。
あの人の言葉なんて気にしたくないのに、言うことを聞かない頭に嫌気がさす。
「わたしは、友達のことを優しいって思ってるんです。けどその人は、わたしより先に、わたしの友達と出会ってて」
「…不安になっちゃったんだ?」
肯定の意味を込めて頷けば、ぽん、と頭の上に新羅さんの手が乗っかった。
慰めてくれているのだろうか。
「…そのうち、どんな人間か嫌でもわかるよって言われたんです」
「うん」
「それでわたし、何か怖くなっちゃって」
静雄さんは優しい人だけど、それが本当の姿じゃなかったとしたら?
そしたらわたしは、静雄さんのことを嫌いになったりするのだろうか。
そんな、わたしが一晩中考えてわからなかったことを、新羅さんはいとも簡単に答えてみせる。
「不安になる必要はないよ。その人が美尋ちゃんより、美尋ちゃんの友達のことを知っているのは普通のことだろう?」
「…はい。でも、」
「その人と美尋ちゃんの友達の相性悪かっただけのことさ」
新羅さんの言うことにも一理あるとは思う。
けど折原さんのあの口ぶりには、何か恐ろしいものが隠されているように思えて。
「確かに、自分の目で見たものだけが真実とは限らない」
「……」
「けど美尋ちゃんにとってその友達が優しい人なら、それはきっと優しい人なんだよ」
まあ美尋ちゃんにだけっていう可能性もあるけどね。
安心させるかのように笑いながら言った新羅さんは、やっぱりわたしより大人なんだな、と思った。
「たとえば静雄だってさ」
「は、い」
「美尋ちゃんには優しいけど、僕の首とか平気で絞めるでしょ?」
「ふふ。そうですね」
まさか静雄さんの名前が出るなんて思いもしなかったから、少し驚いた。
もしかしたら新羅さんは、わたしが言う“友達”が誰なのか気付いてるのかもしれない。
「そんなことをされても、僕は静雄が乱暴なだけの人間じゃないって知ってるから嫌いになったりはしない」
「……」
「けどそういう面を知らない人の中には、彼を敬遠したり嫌ったりする人もいると思う。でも、それは決しておかしいことじゃない」
それはまったく普通のことで、当たり前のことだった。
どんなに優しい人でもその人を嫌う人はいるだろうし、どんなに人望がある人でも、世界中の誰にも嫌われないなんてことはありえない。
「結局は、まだ知らない静雄の一面を見た時、美尋ちゃんがそれを受け入れられるかどうかなんだよね」
「…え?」
「ああ、知らない一面とか受け入れられるかとかって言っても、別にそんな大それたことじゃないから安心して」
いや、わたしが聞きたいのはそっちじゃないんですが。
そんなことを思いながら新羅さんを見つめれば、彼は少し意地悪く笑う。
「静雄さんのことって、気付いてたんですか?」
「さあ?僕はあくまで例として、静雄の名前を挙げただけだよ」
「……」
新羅さんのうそつき、その笑顔はわかってて言ったな。
名前を伏せて話した意味なかった、とため息を吐けば、新羅さんは笑うのをやめた。
「1人知ってるんだよ。静雄に関してそういうことを言いそうな人間を」
「…そうなんですか?」
「うん。けど気にしなくて大丈夫。だから、」
そんなこと気にして、静雄によそよそしく接したりしないであげてね。
新羅さんにそう言われて、自分自身にハッとした。
もしかしたらわたしは、静雄さんにどう接していいか、わからなくなってたのかもしれない。
「美尋ちゃんは、美尋ちゃんが見た静雄を信じてあげればいいよ」
「…はい」
「それはきっと間違いなんかじゃないから」
わたしが見た静雄さんは、間違いなんかじゃない。
そのことだけが頭をぐるぐる渦巻く中、窓の向こうには夕焼けが広がっていた。