頑張れ美尋、頑張れ美尋、頑張れ美尋。
昔の人は言ったものだ、“夢見る少女じゃいられない”と。…あれ?昔の人だったっけ。いかんせんその言葉というかフレーズだけしか覚えていないからよくわからないけど、この際もういい、何だっていい。
とにかくわたしだって、彼氏がいて…しかもそれが年上って以上、いつまでもふわふわした乙女じゃいられないんだ。
いや、いられないかはわからないけど、とりあえず覚悟はしておいて損はないだろう。ということで頑張、
「美尋、入るぞ」
「はいぃぃいっ」
…が、頑張る、ぞ。おうッ。
軽く手を当てるだけだったバスタオルを鎖骨のすぐ上まで引き上げて、自分自身を奮起させる。
それと同時に聞こえてきたお風呂場の扉を開く音に、わたしの肩がわずかに震えた。
「………」
「どッ どう、しましたか」
「…お前、寒くねえの?」
「大丈夫です問題ないですむしろ暑いくらいです!!」
「ならいいけど。タオルの濡れたとこ冷えるだろうから、ちゃんと肩まで浸かっとけよ」
「は、はい…」
ぶくぶくと行儀の悪い泡がたてられそうなほど潜り、鼻から上だけを水面に出す。
…ふむ。たぶん今は静雄さんが髪とか体洗ってるからだろうけど、思ってたよりも平気な気がする。
それならバスタオル外せだとか電気つけろだとか、そういうこと言われたら、調子に乗ってごめんなさいって謝るけど。
それにしても、本当に突然どうしたのかな。
普段の静雄さんだったら…って別に今日の静雄さんがおかしいって言うつもりはないけど、少なくともわたしの知り得る限りの静雄さんであれば、「じゃあお前先入れよ、俺寝るかもしんねえけどそしたら明日入るわ」とか何とか言いそうなもんだ。もしくはわたしが強引に静雄さんを先に入らせるかのどっちか。
でも今日は、まさかの一緒にお風呂を提案してきた。
……いくら考えても、なぞでしかない。
なぞといえば、わたしが口ごもっていた時の静雄さんの態度だってそうだ。
これはあくまで主観でしかないから否定されたらそれまでだけど、何だかいつもと違って見えた気がした。
言葉にはしないまでも、「もういい」と思っていそうな、突き放されたような気分になった。ちょっとだけ、気がかりである。
「美尋」
「え?」
「入るからちょっとつめろ」
ちょ、ちょッ、いつの間に!
体感としてはほんの1・2分だったつもりなのに、もう10分くらい経ったりしていたのだろうか。わたしはそんなにぼうっとしていたのだろうか。
急過ぎる展開に混乱しながらも言われた通り足をひっこめれば、静雄さんが浴槽の中に浸かる。
…夜一緒に寝てる時よりも距離は遠いはず、なのに、すごくどきどきする。
「はー…やっぱ狭ぇな」
「あ、あは…まあ、2人ですし。わたしはまだしも、静雄さんは背が高いですから ね」
いつもより狭い浴槽、2人分の声の反響、薄暗い浴室、水気を含んでぴったりと張り付くバスタオル。
その全てがわたしを緊張させて、鼓動を速くさせる。
「昨日今日は大変だったな、色々と」
「 そう、ですね」
「…ま、迷惑はかけちまったけど、お前が怪我してなくて良かったわ」
濡れた髪を掻き上げながら言う静雄さんに、何だか胸が高鳴った。
「……ッ」
「…おい、どうした?」
「ちょっ、待ってくださいッ」
どうしよう、自分の彼氏ながら格好良過ぎて何か出そう。
いや何かって聞かれたら答えられないけど、何か、体内から出てきそう。
「……は、あ」
「…大丈夫か?のぼせたなら、」
「いやッ大丈夫です!」
つけてるのが脱衣所の電気だけで本当に良かった。
そうじゃなきゃこの真っ赤な顔も、どきどきのせいで泳いじゃってる目も、きっとみんなみんなばれていたに違いない。
「…わたし、も」
「…ん?」
「わたしも、静雄さんが怪我とかしてなくて、…良かったです」
「…俺の場合は滅多なことじゃ傷なんかできないだろ」
「そうかも…っていうかそうですけど、それでも嫌です」
言ってしまえば、静雄さんが怪我することももちろん嫌だけど、元を正せばそういう感情を誰かに抱かれてしまうのが嫌だ。
静雄さんの体を傷つけようと、誰かが思うこと自体が嫌なのだ。
「…胸のところ、大丈夫ですか?」
「…胸?」
「ほら、グラウンドにいる時にちょっと刺されたじゃないですか。刃はポロッと落ちてましたけど」
「ああ、ここか」
言いながら自分の胸元を見た静雄さんの視線を追って、自然とわたしもそこを見てしまう。
…っやばい何でこんな恥ずかしいの、相手は男の人なんだから気にすることなんてないのに!
「…痛い、ですか」
「いや、全然」
「……なら、良かった。手当とかしなくても平気そうですか?」
「おう」
そう言うと同時に手を下ろした静雄さんの動きに応じて、水面がぴちゃんと音を立てる。
こんな音、誰かと一緒に聞いたことなんて記憶にある限りはなかったのに。
この空間に存在するひとつひとつの音や光景に、わたしの体は沸騰しそうなくらいに熱くなって、頭がくらくらと揺れる。
「…おい、美尋?」
浴室に響く、わたしの名前を呼ぶ静雄さんの低い声が、ぼんやりと広がって心地いい。
目を閉じているせいか、浴室のいろんなところから静雄さんの声が聞こえてくるようで、まるで大好きな静雄さんの声に、全身が包まれているようで。
「……おい、美尋ッ」
ああ、少し恥ずかしいけど幸せだなあ。
そんなことを思いながら最後に聞いた彼の声は、それはそれは焦りに満ちたものだった。