「わたしね、美尋っていうの。あなたのお名前聞いてもいい?」
新羅さんと同じように、少女の目線の高さまでしゃがんでにこりと笑う。
少女は一瞬肩を震わせたけれど、
「…アカネ」
「アカネちゃんっていうんだ、かわいいお名前だね。教えてくれてありがとう」
「上のお名前も教えてもらえるかな?」
新羅さんがそう聞いた瞬間、アカネちゃんという子は黙り込む。
どうやら言いたくないらしいけど…どうしてだろう。
そう思っていると、新羅さんもまた言いたくないという彼女の気持ちをくみ取ったのか、再び笑って口を開いた。
「どこか苦しいところはない?喉が痛いとか、お腹が痛いとか、平気?」
「痛いところとかあったら言ってね」
笑いかけながらわたしたちが言えば、こくりと頷いたアカネちゃん。
とりあえず具合は大丈夫らしいし…ひとまずは安心かな。
「そっか…良かった。じゃあ、昨日のことを聞いても大丈夫かな?」
新羅さんの言葉にしばらく考え込んだアカネちゃんは、頷くことも首を横に振ることもしなかった。
…やっぱり、まだ静雄さんへの警戒は解けないか。
仕方ないことかもしれないけど、その理由がわからないことには、わたしたちもどうしようもないんだよなあ。
「大丈夫、何もしないから。あいつは乱暴者だけど、本当はいい人なんだよ?君のことをいじめようとしてたなら、もうとっくにポカポカやられてるだろ?」
「………」
「それとも、あいつに何かされちゃった?だからやっつけようとしたのかな?」
「……ううん」
おお、流石新羅さん。
徐々に核心に近づく質問をアカネちゃんに投げかける新羅さんに、ひとり感心してしまった。
「じゃあ、どうしてあのサングラスのお兄さんにいなくなって欲しかったの?」
「……」
一瞬黙り込んだアカネちゃんは、顔を上げてチラリと新羅さんの顔を見る。
それにつられてわたしも新羅さんに目を向ければ、そこには彼女を安心させようとしている、やわらかな笑みがあるばかりだったのだけど。
「……殺し屋だから」
その言葉に、新羅さんの表情から笑顔は消え、わたしたちは耳を疑った。
「わたしのお父さんやおじいちゃんが、しずおっていう名前の殺し屋のお兄ちゃんに殺されるって言われたの。だけど、お父さんたちのところにも戻れないから、どうしたらいいのかわからなくて…」
その瞬間、わたしの全身に嫌な予感が駆け巡った。
そしてそれはきっとわたしだけでなく、おそらく、新羅さんと静雄さんも同じ予感にたどり着いたのだと思う。
だってそんな、静雄さんが殺し屋だとうそぶいて少女をけしかける人なんて、わたしはひとりしか知らない。
その事実に内心ため息を吐いていると、背後から聞こえてきたのは、骨の軋むような音だった。
「……で、あのスタンガンは?」
「これならやっつけられるって、くれたの」
「誰が?」
「わたしが家出する時、いろんなことを教えてくれた人」
家出という言葉が引っかからなかったわけでもないけれど、それ以上に見過ごせない、“いろんなことを教えてくれた人”という言葉。
予感が確信に変わり始める中、“その人”の言動について再確認する新羅さんに、アカネちゃんは頷く。
そして新羅さんは、わずかに緊張した様子で、アカネちゃんに問いかける。
「……なんて名前の人かな?」
決定打となる質問に、一瞬ためらうアカネちゃん。
けれどこのわずかな間に新羅さんのことをよっぽど信頼したのか、おずおずとその名前を口にした。
「……イザヤお兄ちゃん」
ああ、やっぱり。
かわいい少女の口から出るにはあまりにも物騒な人物の名前に、背後からの気配に、ぞくりと背中に寒気が走った。
そしてそれは新羅さんも同じだったのか、わたしたちは冷や汗をかきながら、ゆっくりと振り返ったの、だけど。
「…え、」
そこには、柔らかな笑顔を浮かべる、静雄さんがいた。
やばい格好いい、すごく格好いい、この人の彼女とかわたし幸せ過ぎる――…なんて場違いな思考も生まれはしたけれど、それをはるかに上回るのは、恐怖や絶望と言ってもいいくらいの感情。
そして静雄さんは、そんなわたし――…いや、新羅さんとわたし、そしてトムさんの気持ちも知らないのか、柔和な笑顔を崩さずに呟いた。
「はは、それは誤解だよ、アカネちゃん」
「え……」
「イザヤくんは、俺のことを勘違いしてるんだよ。俺は殺し屋なんかじゃない」
「……本当に?」
「ああ、本当さ!イザヤくんとは友達なんだけど、ちょっと喧嘩しちゃったんだ」
この静雄さんに安心感を覚え始めているであろうアカネちゃんが、心からうらやましい。
…だってさあ。本当さあ。これからのことを思うと怖くて怖くて仕方ないよ、わたし。
肩をすくめてわたしたちに背を向けた静雄さんを眺めながら、そんなことを思っていると。
「ちょっと今から、仲直りしてくるよ」
アカネちゃんに対して無邪気なウインクをし、口笛を吹きながら部屋を出て行った静雄さん。
確かにその姿は格好いいのに、どうしてこんなに怖いのだろう。
そんな感情が渦巻く中、トムさんが後に続いたのを見て、ハッと立ち上がる。
「あのっ、じゃあわたしもこれで失礼しますッ」
この部屋に来る前に着替えておいてよかった。
そう思いながら急いで玄関を出れば、ちょうどトムさんが静雄さんに声をかけようとしているところだった。
「……よく我慢した。お前は今、国民栄誉賞をもらってもいいと思う」
「……ありがとうございます、トムさん」
確かに、トムさんの言う通りだ。
恐怖に支配されていた心が徐々に溶け、新たに生まれる静雄さんへの評価の感情。
本当に、本当に、よく頑張りました静雄さんっ…と感動していると、
「1つ、お願いがあるんすけど」
「何だ?」
こちらを向かないまま、トムさんに語りかけた静雄さんは。
「俺が今日、人を殺して逮捕とかされたら、俺は昨日の時点で会社を首になってたことにしてくれって社長に伝えてください」
え、ちょっと、何言ってるんですか。
再び駆け巡る恐怖と絶望に言葉を失っていると、トムさんも思うところがあるのだろう、わたしの方をちらっと見て目を伏せた。
「…………」
「………………」
つかつかと歩いていく静雄さんの背中を眺めながら、立ち尽くすわたしたち。
もう、どうしたらいいのかなんて、わからない。
「…………」
言葉を失ったまま、マンションの通路から景色を眺めるわたしたち。
そして懐から出した煙草に火をつけたトムさんは、
「今日は静雄は休みだって、社長に連絡しとかねえとな……」
煙とともに呟いて、わたしの方に顔を向けた。
その表情は苦笑と言うほかになくて、つい「すみません」という言葉が漏れた。
「…仕方ねえべ、あれは」
「…仕方ない、ですけど…」
「大丈夫だって、心配すんな」
あいつだって、美尋ちゃんを置いてムショなんていけねえってことはわかってるよ。
乾いた朝の空気の中、静雄さんとは違う煙草の香りと憂鬱な気持ちが、わたしの体を包んでいた。