それは、仕事も終わり家路を急いでいる時のことだった。
「よう、元気かい?」
突然背後からかけられた、耳慣れない声。
反射的に振り返れば、そこには一台のバイクと、見たこともない男が立っていた。
「平和島静雄ってのはあんたか?まあ、バーテン服でうろついてる奴なんてそうそういるとは思えないけどよ。この辺じゃ有名なんだってな」
「……?」
「こないだ、うちのチームの連中があんたにやられたって話でさ」
「チーム?」
いきなり話しかけてきたと思えば何の話だ。
…いや、身に覚えがないわけじゃない。
身に覚えがありすぎてどのことを言われてるのかわからないだけなんだが―…こいつはそんな俺の気も知らないらしく、寄りかかっていたバイクから身を離し、ゆっくりと近づいてきた。
「いや、あいつらが勝手にこっちで暴れたってのは聞いてるから、あいつらにゃあいつらでケジメはつけさせんだけどさあ。まあ、つっても全員入院コースでな。こっちが悪ぃにしても、ちいとばかしやり過ぎじゃねえかって文句を言いに来たんだけどよ」
俺より頭1つ分くらい背の低い男は、互いの息が届きそうなほどの距離まで俺に近づいて言う。
「病院のベッドで寝てる連中に聞いたらよ、なんて言ったと思う?あんたが街灯引っこ抜いて振り回したとか言うじゃねえか。頭でも打ったのかと思ったが、今日来てみりゃ、本当に街灯が一本、根元のコンクリが新しくなってるときた」
「それで?」
「こっちもこういう立場だからよ。あんたがどんだけ強いのか興味が湧いてな。…ところであんた、誰か泣いてくれる女はいるか?」
「はあ?」
眉を顰めながら言った俺に、男は笑いながら語り続ける。
泣いてくれる女って…まあそういう存在はいるにはいるが―…
怒ったり心配したりはするにしても、よっぽどのことがない限り泣きはしねえだろうな、美尋は。
「もうちょっと突っ込んだこと聞くと―…泣いてくれる女がいるとして、そいつは大槻美尋って名前か?」
「…ああ?」
「大槻美尋だよ、大槻美尋」
何でここであいつの名前が出てくるんだ。
理解できない状況に口をつぐんだままでいれば、目の前の男が続けて口を開いた。
「あんたのこと調べてるうちに出てきてよ」
「…………」
「まあ美尋であろうとなかろうと、女を泣かせるのは趣味じゃねえからよ。そういう存在がいるなら見逃してやってもいいと思ってな」
俺がだめならあいつを潰そうとでも思ってんのか。
今頃家で俺の帰りを待っているであろう美尋の顔を思い浮かべれば、眉間の皺がさらに濃くなった気がする。
「……ああ、そうか。やっと納得いった」
「何がよ?」
「俺は今、喧嘩売られてるっつーことか」
「そうなるな」
今更過ぎる発言に、男は一瞬拍子抜けしたような表情を浮かべた。
…なるほどな。
「そうかそうか。こんなにストレートなのは、高校の時以来だ。つーか、俺ももういい年した社会人なんだが、お前はまだ二十歳にもなってないガキだろ?俺を殴り飛ばしたところで学校じゃ自慢できないぞ」
「喧嘩に年は関係ないだろ?バーテンやってておしゃべりが得意になったのか?」
「だと良かったんだがな」
短い笑いを吐き捨てて、俺はゴキリと首を鳴らした。
「で、大槻美尋が何だって?」
「…知り合いなのは間違いねえみたいだな」
「だとしたら?」
「居場所を教えてほしい」
その言葉を聞いた瞬間、こめかみの辺りでピキリと音が鳴った気がした。
けれどその原因である言葉を発したこいつの目は、なぜかどこまでも真っ直ぐに見えて。
「俺のことを信用しろなんて無理なことは言わねえ」
「………」
「ただ俺は、あいつのことを探してる」
…って、言われてもな。
どうしたもんかと頭の後ろを掻きながら、俺はため息をひとつ吐いた。
「…お前のチームっつーのと美尋のことに関係は?」
「ねえよ。美尋のことは俺個人の…俺と、美尋の問題だ」
「そうか、なら―…」
これが終わった後、お前が立ってたら教えてやる。
自分への驕りと卑怯さを感じながらも、美尋のことを思うと、そう言わずにはいられなかった。
事実こういうことをするってのは、俺の本意じゃねえが―…美尋のことを除いたとしても、こいつは俺に用があるらしい。こうなることはきっと避けられねえはずだ。
「…なんにせよ、こそこそしねえで、こうやって堂々と来られるのは嫌いじゃない。まあ、来ないのが一番いいんだけどな」
「悪いねえ」
「そうそう、ひとつ言っておくけどよ」
焦れたとでも言うように、俺の言葉が終わるのも待たずそいつが動き出した。
…こいつと美尋がどんな関係なのか、俺にはわからねえ。
興味がないとは言わないが、今のあいつの日常を壊すものであるなら、必要ないとさえ思う。
「言っておくけどよ…俺の望みは、名前の通り、静かに暮らすことだ」
「……ああ?」
そこには確実に、美尋の存在が含まれている。
そして一番最悪な形は、あいつの身や日常に、何らかの悪意や脅威が向かうことだ。
「だからその、なんだ…」
「うぉ……ッ!?」
男の顔面に向け、拳を振りかざした俺は―…
「寝てろ」
男が立ちあがらなかったことにそこはかとない安心感を覚えながら、奴の腕を肩にかけた。