カタン。
どこかから聞こえてきた音に目を開けば、一瞬思考が停止した。


「…美尋?」

「静雄…さん?」


はっ、いつの間に寝ていたんだわたしは。
変な体勢だったせいで痛む背中と腰をさすりながら、ぱたぱたと玄関に駆ける。


「おかえりなさーい」

「ただいま」

「お疲れ様です、ご飯食べますか?」

「いや、夜食食ったから明日の朝食うわ」


靴を脱ぎながら言う静雄さんに頭をひと撫でされたと思えば、頬に軽いキスを落とされた。
そして頭の上にあった手は、そのまま頬に降りてきて。


「寝てたのか?」

「えっ」

「ここ跡ついてんぞ」

「うそッ」


静雄さんが触っていたところに手を伸ばせば、寝跡と思しき凹凸があった。
うわあああ、恥ずかしいッ。


「テーブルで寝るとこうなるんだ…」

「先に寝てろってメール見てなかったのか?」

「それ受信する前に寝ちゃったんだと思います」


テーブルで。
静雄さんの分の飲み物をグラスに注ぎながら心の中で呟けば、バーテン服を脱ぐ静雄さんがテーブルにちらりと視線を向ける。
そこにあるグラスや携帯を見て何を思ったのか、部屋着に着替えた静雄さんはわたしから飲み物を受け取ると、手招きをして足の間に座らせた。


「悪いな」

「え、何で謝るんですか?」

「帰り遅くなったから」

「いや…まあ帰りは早いに越したことないですけど、うん、大丈夫ですよ」


静雄さんだって好きでこんな遅くまで仕事してるわけじゃないし、仕方ないし。
それに明日はバイトもないから、(結局寝てたけど)起きて待ってるのだって、苦じゃなかったし。


「わたしが早く帰ってきて欲しい理由だって、お仕事大変だろうなあとか思うからですもん」

「ん」

「それ以上に早く会いたいからですけど、静雄さんだって頑張ってますしね」


あんまわがままばっか言えないよなあ。
そんなことを思いながら振り返って見上げれば、静雄さんはわずかに笑って、後ろからわたしを抱き締める。


「あー…」

「え、どうしました?」

「いや、何でもねえ」


そういう割には、わたしの肩口に頭を寄せてぐりぐりしてらっしゃる。
多分甘えてきてくれてるんだろうって、嬉しいん、だけど。


「…静雄さん、何かありました?」

「は?」

「いや、なんていうか」


こういう風に帰宅早々甘えてくる時って、大体いつも元気がないんだよなあ。
けどはっきりそう言っていいのかもわからないし、これまでのことを思い返しながらどう説明しようか考えてみたけれど―…特にいい返しが浮かぶこともなく。


「何か、元気ないなあって思って」

「………」

「いや、気のせいなら良いんですけど」


お腹のあたりにまわされた手に自分のそれを重ねて、静かな声でそう呟く。
これまでにも何度かこういうことはあったけど、いつも何があったのか聞かないでいたし…どこまで踏み込んでいいんだろう、なんて思ってたら。


「少し疲れた」

「あ、ああ…えっと、大丈夫ですか」

「ん」


右肩に乗る心地よい重みに少しだけ目を向け、視界の隅にうつむく金髪をとらえた。

こういう時、わたしはどうしたらいいんだろう。
いつも落ち込んだり元気がなくなったりしたら励ましてもらっているのに、相手がそうなった時どうしたらいいのか、何一つわからない。


「今日、ちょっとイラつくことがあってよ」

「はい、」

「別に大したことじゃないし、何ともねえんだけど」


けど。
こうして含みを持たせるのは、静雄さんの癖だ。


「その後、ちょっと知り合いに会ってな。そいつらが幽のファンで」

「はい」

「あいつ前に、今日池袋でロケだっつってたんだよ」


ああ、幽さんのこと思い出したんだ。
せっかく同じ池袋に住んでるんだし、たまには顔を見せてあげて欲しい―…なんて思うのは、わたしが一般人だからだろうか。


「知り合いに会ったのが帰ってくる直前だったから、帰りながら考えてた」

「じゃあ元気がないわけじゃ、」

「ない」


ということは、ただ疲れてるだけなんだろうな。
考えてみれば、最近はわたしもバイトが忙しかったから、こうしてくっつくのも何だか久しぶりな気がする。
…こんなことで少しでも癒せれば、なんて思うのは、自惚れなのかもしれないけれど。


「静雄さん、」

「ん」

「そっち向いてもいいですか?」


その問いに対する言葉はなかったけれど、肩からは重みが消え、身体がぐるりと後ろに向かされる。
数分ぶりに見た静雄さんの顔からは確かに、特別元気がなさそうな感じはしなかった。


「元気がないわけじゃないなら、良かったです」

「ん、悪いな心配させて」

「いいんですいいんです、それもわたしの役目ですし」


包み込むように頬に手を当ててはにかめば、背中にまわった腕に少しだけ力が加わった気がする。


「でも、もし何かあったら言ってくださいね。静雄さんが元気ないの嫌だし、何も言ってもらえないのって寂しいですから」

「ん」

「いつもお疲れ様です」

「…おう」


いつも頑張ってくれてありがとう、なんて思いを込めてやわやわと頭を撫でれば、満足そうに静雄さんが笑った。
ふふ、かわいい。これがあの池袋最強だなんて、


「 あ、」

「どうした?」

「いや、あの、えっと」


池袋最強。
その単語が頭をよぎった瞬間、つい口から声が漏れた。


「何だよ」

「えー、っと…ですね、」


どうしよう。
気にしなければいいやって思ったけど、“何かあったら言ってください”なんて言った手前、黙っているのも気が引ける。
だからと言って、これを話したことによって静雄さんがイライラしたりする可能性もないとは言えな―…


「美尋」

「は、はい」

「何かあったなら言え」


相手を心配しているという点においてはお互い同じ気持ちだろうに、静雄さんに言われると拒否権はないように感じられる。
…出来れば、イラだったりしませんように。
頭の中で神様にそう祈り、目を伏せて口を開いた。


「別に嫌なこととかじゃなくて、報告っていうか、アレなんですけど」

「おう」

「今日のバイト帰りに、来良に通ってる年下の友達から、静雄さんの彼女として有名になってるって聞いたんです」

「…お前が?」


肯定の意味を込めて頷けば、静雄さんは少しだけ眉をひそめた。
だから何だって言われてしまえばそれまでだけど、静雄さんはこれを聞いてどう思ったのだろう。


「池袋関連の掲示板とかに書いてあったらしいからダラーズのを見てみたんですけど、」

「書いてあったのか?」

「はい。外見の特徴とか、門田さんたちとたまに一緒にいるとか、…あと名前も」

「…はあ」


頭を掻きながら、静雄さんがため息を吐いた。
その表情は少しだけ苛立っているようにも見えるし、申し訳なさそうにも見える。


「あ、でも別に、わたし気にしてないですからね」

「………」

「友達にも気をつけるように言われましたし、静雄さんにも心配かけたくないから、気をつけるようにします」


けど、それ絡みで何かあったとしても、静雄さんと別れる気なんてありません。
静雄さんの目を見てしっかりと伝えれば、


「…んん、っ」


少しだけ背中を丸めた静雄さんの唇が、わたしのそれにそっと重なる。
それは優しさと暖かさにあふれていて、数時間前に抱いていた不安とか、色んなものが一気に消えていくのを感じた。


「…お前、変わったな」

「…ちゅーして一番に言うのがそれですか」

「いや、何か父親みたいな気分だわ」


父親って。
そう言おうとしたけど、静雄さんがあまりに真剣な顔で何事かを考えているようだったから、何も言えなくなった。


「今までのお前だったら、心配かけるからって話さなかっただろ」

「あー…まあ今回も、気にしなければいいかって自己完結したんで、話そうとは思ってなかったんですけどね」

「話せよ馬鹿」


いや、だから話したじゃないですか。
またしてもそんな言葉が口を出そうになったけど、きっと静雄さんが言ってるのはそういうことじゃないだろうから。


「じゃあ、改めて約束しましょう」

「約束?」

「はい。お互いに、何かあったらちゃんと言うようにしましょう」


小指だけ立てた右手を向けて笑えば、静雄さんも笑って右手を出してくる。
懐かしいなあ、指切りげんまん。


「…ありがとな、美尋」

「はい?」

「何かあったとしても俺と別れない、って」


すげぇ嬉しかった。
離れた小指の代わりとでも言わんばかりに、身体全体が包み込まれる。
段々と小さくなっていった言葉の後半は消え入らんばかりだったけど、わたしの耳にはちゃんと届いていて。


「…わたしも、嬉しいって言ってもらえて嬉しいです」

「…そっか」

「ふふ、はい」


わたしを包む静雄さんの、大きな背中に手を回す。
その瞬間に彼の腕の力が強くなったから、わたしはこの人とは離れられないんだな、と幸せな脳内で考えた。


 



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