あの数日間の出来事は夢だったのではないか。
そう思ってしまうほどに、わたしの周囲を流れる空気は穏やかだった。
のに、
内緒モード【正臣が退学したんです】
「え、」
その文字につい声が漏れた。
退学って、どうして。そんな疑問に頭の中が支配され、帝人くんへの返事をするよりも前に、動いていた手は紀田くんの番号を呼びだしていた。
けれど彼がそれに応じることはなく、ただ無機質な録音音声が聞こえてくるだけだった。
内緒モード〈…携帯解約したんだね〉
内緒モード〈かけたけど、現在使われておりませんって音声流れた〉
内緒モード【そうみたいですね】
内緒モード【美尋さん…何も聞いてないんですよね、正臣から】
内緒モード〈うん〉
内緒モード〈最後にお見舞い行った時、治ったら遊びに行こうって話したのに…〉
何があったのか気になりはしたけれど、親友の帝人くんが何も知らないなら、きっと知るすべはないのだろう。
…1人だけ知っているかもしれない人が浮かんだけれど、気のせいということにしてチャットルームを出た。
******
――甘楽さんが入室されました――
《ハイハーイ!みんなのアイドル、甘楽さんですよーっと》
《あッ珍しくヒロさんが連日でいる!》
{こんばんは}
[ばんわー]
〈どうも〉
《あれ!?みんな挨拶への突っ込みはなしですか!?》
《あとヒロさん!連日ってとこに何か反応してくださいよぅ》
〈嫌です〉
[突っ込む気力もありません]
[今日はちょっと、そういう作った喋り方に本気で殺意を覚えているのでやめて下さい]
《酷いなあ、みんなして》
『あ、俺、初めてっすけど、』
『突っ込みまくっていいんですか。この人に』
[時間の無駄ですよ]
〈ほんとそうですよ〉
『人間の生きる時間なんて九割が無駄だから問題なしというわけで、』
『俺の無駄でこのチャットルームを満たしたいぐらいです』
『というわけで、』
『ガンガン突っ込んでいきたいです』
[また変な人が!]
〈むしろガンガンやっちゃってください〉
『ガンガンやってきます』
《このチャットって、私以外変なテンションの人ばっかりですよねー》
『突っ込みませんよ』
《あれ!?話が違う!?》
――太郎さんが入室されました――
【こんばんわ】
[ばんわー]
{こんばんは}
〈あ、太郎さん。こんばんはー〉
【ああヒロさん。連日だなんて珍しいですね】
〈ちょっと時間があったので来てみました〉
《あれ!?私の時は反応してくれなかったのに!》
【あれ、新しい人がいらっしゃいますね】
『ども、』
『初めまして。バキュラです』
【はじめましてー】
『甘楽さんに誘われてきましたー』
{そうなんですか}
[へえ、私はネットで知り合ったんですけど、バキュラさんもですか?]
『いえ、リアル知り合いっす』
《私は仕事仲間みたいなものです!表向きはですけど……きゃッ!》
『甘楽さんは何時死ぬんですか?』
《予想外に厳しい突っ込み!?》
{しねは ひどいと おもいます}
『すいません、』
『甘楽さんが苛立たしくてつい』
[ツンデレですらないですねえ]
〈バキュラさんもっとやっちゃってください〉
…自分でも思うけど、ここ最近のわたしって辛辣だなあ。
もちろん相手が臨也さんだからなんだけど、これで他の人に嫌われたらどうしよう。
《というか、現実で会ってるんですから、バキュラさんは私の魅力をみんなに教えてあげてくださいよ!》
『そうですねえ、』
『例えば、』
『甘楽さんを点数で表すと――』
『√3点』
[ルートて]
〈新しい表現ですね〉
《え?それは私が割り切れない程に美しいって事ですか?》
『小学生にはまだ難しいから見せない方がいいって事です』
《褒められているのか貶されているのか解らない!?》
『あ、すいません、あっし、今日はこれであがりますわー』
[はいー]
《お疲れ様でしたーッ!》
{おつかれさまでした}
〈お疲れ様です!〉
【あの、バキュラさん!】
【また、来てくださいね!歓迎しますから!】
『また来ます―。それでは!』
[おやすー]
《お休みなさいー》
〈おやすみなさーい〉
――バキュラさんが退室されました――
******
まるであの日の出来事が夢だったのかと思えてしまうほどに穏やかだったわたしの日常から、1人の男の子が消えた。
けれどわたしは、気付いていなかった。
彼のした行動が、数年前、自分がした行動であったことに。
そして、1人の少年が消えた日常に、別の男の子が加わるのが、そう遠くない未来だということに。