「とりあえずお前は何もするな」
「はい…」
「明日は…流石に仕事行くけどよ。家事は基本的に俺がみんなやるから」
「はい…」
お前は早く治すことに専念しろ。
家に着いた瞬間部屋の片づけを始めようとしたわたしを正座させ、静雄さんはそう言った。
「でもま、ただの風邪で……いや、良くねえか」
「いやいや、良かったですよ。インフルでもないし、他の病気も併発してないし」
「それは確かにそうだな」
つーかもう足崩していいぞ、と付け加えられ、慣れない正座から解放された。
そんな長い時間してたわけじゃないから痺れてはいないけど、ちょっと疲れた気がする。
「とりあえず横になっとけよ。寝なくてもいいから」
「や、横になってると逆に疲れちゃいそうなので、起きてます」
「そっか」
言いながら頭を撫でる静雄さんの手が心地いい。
そう言えば、こんな風に存分に触れ合うのは久しぶりな気がする。
「どうした?」
「…ううん、」
何でもないですという言葉の代わりに、じりじりと静雄さんの方に寄って行く。
静雄さんも紀田くんも怪我はしたけれど、長い長い昨日は終わったんだ。
さっきよりもグンと近くなった距離にそんなことを思いながら、静雄さんの肩口に顔を埋める。
「…昨日は本当に、ごめんなさい」
「…ん?」
「静雄さんと別れるだなんて、わたしには無理だったのに」
静雄さんの背中に腕を回しながら言えば、頬に手が添えられて強制的に上を向かされる。
…あ、これはそういう雰囲気だ。
心の中でそんなことを思いながら目を閉じようとした時、
「ぅわっ、」
なんてタイミングだろう。
ポケットの中で震えた携帯を取り出して見れば、そこには杏里ちゃんの名前が表示されていた。
「友達か?」
「はい、昨日の朝新羅さんの家にいた眼鏡の女の子です」
「出ていいぞ、俺飲み物取ってくる」
「あ、はい」
一瞬にして壊れた甘い雰囲気に咳払いをひとつして、画面に触れる。
そういえばメールはしたけど、電話は折り返してなかったなあ。
「もしもし、杏里ちゃん?」
『…あ、美尋さん、今大丈夫ですか?』
「うん、大丈夫だよー」
折り返しの電話をしなかったことを付け加えて謝れば、こっちが恐縮してしまうほどていねいに「大丈夫です」と言われた。
相変わらず礼儀正しい子だなあ。
『あの…わたしがこんなことを言うのは、おかしいってわかってるんですけど』
「ん?」
『折原臨也さんには…気をつけてください』
のんきなことを考えていた時耳元から聞こえたそんな声に、一瞬聞き間違いかと思った。
だって今わたしが電話してる相手は杏里ちゃんで、なのに。
「臨也さんと、何かあったの」
つい口からそんな言葉が漏れて、部屋に戻ってきた静雄さんの眉間に皺が刻まれたのが見えた。
けれど電話の相手が女の子の友達だということをわかっているからか、不機嫌そうな顔をしているだけで何も言ってこない。
『大したことじゃないんですけど…でも、あの人は美尋さんのことを気に入ってるみたいだったので』
「…すごく不本意だけどね。…っていやいやそうじゃなくてッ杏里ちゃんは大丈夫だったの?」
『あ、はい、何ともありませんよ』
過去に臨也さんと何かあったらしい紀田くんに言われ続けていたことを、まさか杏里ちゃんに言われるとは思わなかった。
一体臨也さんとの間に何があったんだろう、と思わないわけでもないけど、杏里ちゃんはきっと言わないんだろうな。
「…何があったかわからないけど、本当に大丈夫なんだよね?何もされてないんだよね?」
『はい、本当に大丈夫です』
「…そっか、なら、良かった」
嘘を吐いてたりしたら、という思いが一瞬頭をよぎる。
けれど顔を見て話してるわけでもなく、あくまで電話越しの彼女からは、そんな気配は感じられなくて。
「わざわざありがとう」
『いえそんな、余計なお世話だとはわかっていたんですけど…』
「そんなことないよ。わたしも昨日改めて思ってたところだから」
『え?』
改めてって、美尋さんも何かあったんですか。
そう言いたげな声に答えるべく、そして、静雄さんに安心してもらうべく。
「わたしも昨日、色々あってね。あなたのことが嫌いになりましたって言ってきたばっかりなんだ」
苦笑しながら言えば、電話の向こうの杏里ちゃんと、視界の隅の静雄さんが息をのむのがわかった。
「もう関わりたくないし、わたしも気をつけるようにするけど…杏里ちゃんも気をつけてね」
『あ、はい…』
それじゃあ。
どちらからともなくそう言って、携帯をテーブルの上に置く。
「わっ、!」
それと同時に腕を引っ張られたかと思えば、次の瞬間には静雄さんの腕の中におさまっていた。
え、と。静雄さん?
「あの、」
「美尋」
「あ、はい」
わたし一応病み上がりっていうか、現在進行形で(身体が)病んでるんだけどなあ。
そんなことを思いながら静雄さんの顔を見上げれば、まるで泣きそうな顔をしていた。
「え、どうし、」
「美尋」
「は、はい」
「好きだ」
ひときわ強い力で抱き締められて、きっと手加減はしてくれているはずなのに、骨がミシリと鳴った気がした。
けれどそんな顔されたら、わたしは何も言えないわけで。
「わたしも静雄さんが大好きです」
臨也さんとは真逆の位置にいますよ。
心の中でそう呟いて、降ってくるキスに目を閉じた。