結局、あの後チャットには参加出来なかったな。
そんなことを思いながら、夕暮れの中静雄さんとトムさんが待つ60階通りへと急ぐ。

静雄さんから連絡を受けたのが、今から15分くらい前。
とりあえず日中の回収を終え、夜にならないと取り立てられない人たちのところへ行くまで時間があるということで、夕飯を兼ねた食事をしてから事務所へ行って事務作業をするそうだ。
…と、ここまでの状況を整理し終えたと同時に、60階通りに着いたわけ、なんだけど。


「…あの、どうしたんですか、これ」

「…あー、美尋ちゃん」


わたしが来たことに気付いたトムさんは、「ちょっと静雄とサイモンがな」と苦笑しながら頬を掻く。
…いやいや、これちょっとどころじゃないですよ。


「ポストへこんでる…」

「…マジで弁償しろって言われたらいくらくらいすんだろうな、これ」

「…10万はかたいですよね」


静雄さんが喧嘩をするのは今に始まったことじゃない…どころか、それがきっかけでわたしたちは出会ったわけだし、静雄さんだって望んでやってることじゃないから仕方ない。
けれどこうも公共物をどうにかするっていうのは、流石にいかがなものだろう。

そんなことを考えながら静雄さんの居場所を聞けば、どうやらサイモンさんを追いかけてどこかに行ってしまったらしい。


「それにしてもすげー雲だな」

「…あ、ほんとだ。天気崩れそう」

「やべえな…一雨きそうじゃね?」

「ですねえ」


トムさんに続いて見上げた空は分厚く黒い雲に覆われていて、見るからにどんよりとしていた。
うわあ…雨降ったらどうしよう。


「静雄さん部屋干し嫌いなのに…」

「ん?」

「っあ、すいません、」


何でもないです。
ぶんぶんと手を振りながら言えば、何かに気付いたように、トムさんがわたしの後ろに視線を向ける。
あ、


「すんませんトムさん、」

「おお、おかえり」


背後から聞こえてきた声に振り返れば、こちらに向かってくる静雄さんの姿。
もう着いてたのか、とでも言いたげな表情でわたしを見た彼は、「悪い」と一言呟いてわたしの頭に手を乗せる。


「待ったか?」

「大丈夫です。それより怪我してないですか?」

「ん、してねえ」


おそらくついさっきまでサイモンさんとやり合っていただろうその手が、今はわたしの頭でわしゃわしゃと動いている。
…うん、表情を見る限り、機嫌は悪くなさそうだ。


「あの、静雄さんっ」

「ん?」


う。
ついさっきまでサイモンさんと喧嘩をしていたとは思えないくらい穏やかな表情に、何かもう言わなくてもいいんじゃないか、と一瞬だけ言葉が詰まってしまった。
どう、しよう。これは言っていいものなのだろうか。


「どうした?」

「…えーっと、あの」


頭の上に乗せていた手をどけた静雄さんは、不思議そうな顔をしてわたしを見つめる。
…よ、し。頑張れ美尋っ!


「公共物は、壊さないように気をつけましょうっ」

「…は?」

「…あ、あと…お仕事中は、できるだけ……」


徐々に消え入るような言葉尻は、多分静雄さんに届かなかったことだろう。
ううう…さっきみたくトムさんがぽつんとするのもアレだし、本当はもっとちゃんと伝えようと思ってたのに…!
そんな思いと静雄さんの「は?」という言葉に、顔を上げることも出来ずうつむいていたん、だけど。


「あー…そうだな」


予想外の言葉に顔を上げれば、静雄さんはどこかを見ながら頭を掻いていた。
…え、怒ってないの?


「これからは気を付けるわ」

「あ、はい…」

「…何だよ。どうした?」

「っあ、いえっ」


見上げた静雄さんの顔に不機嫌の色はこれっぽっちも見られず、何だか拍子抜けしてしまう。
言っといてアレだけど…静雄さん、前よりも沸点が高くなっているような。


「じ、じゃあそろそろ飯行くか」

「そ、そうですねっ」

「?」


左にトムさん、右に静雄さん。
その場の空気を転換するように咳払いをひとつしたトムさんは、冷や汗のようなものを流しながら歩き出す。
す、すいませんトムさん。


「…ひやひやさせちゃいましたか」

「…キレるんじゃねえかと思った」

「…すいません」

「いや、ある意味びっくりしたけど…まあ、何事もなくてよかったわ」


やっぱり美尋ちゃんには甘いんだな。
わたしの頭をぽんぽんと撫でながら、小さい声で言うトムさんの言葉に首を傾げる。
これは…あれかしら。
本来ならキレてもおかしくないところでキレなかったのは、わたしが言ったから、とか。
そういうことなのかしら、トムさんが言ってるのは。


「そんなことはないと…っわ、え、?」

「……」


話していた相手がトムさんだからか、それまで口を挟むこともなかった静雄さんが、わたしの手を軽く握った。
突然のことに見上げた表情は何だか不機嫌そうで、少しだけ焦ってしまう。


「静雄、さん?」

「………」


どうしたんだろう、と思って声をかけても反応はない…っていうかアレだよね、無視ってやつだよねこれ。
何ですかそれ、手握ってきといて無視とか行動がちぐは、ぐ、だよ。


「(…え、もしかして、)」


…………いやいやまさか。
相手は自分の先輩なわけだし、静雄さんに限ってそんなことがあるわけがない。
…と、思いつつも、手を握り返してみれば。


「…っ、」

「えっ」


一瞬わたしを見てすぐにそっぽを向いた静雄さんだったけど、サングラス越しに見えた目は明らかに見開いていて、その頬はレンズとは真逆の赤みを帯びていた。
し、静雄さん、まさかやきも、


「どうした?」

「っな、何でもないです!」

「?」

「…いや、まじで何でもないっす、気にしないでください」

「そうか?」


不思議そうな顔をしながらも前を向いたトムさんに、内心ふうっとため息を吐く。
一向に離される気配のない手に愛しさが凝縮されたみたく、ぎゅうぎゅうと力ばかりが強くなる。


「…静雄さん、」

「……?」

「耳貸してください」


多分、こんな場所で言うことじゃないんだろうっていうのは、わかってる。
けれど言わなきゃ気持ちがあふれちゃいそうで、言わないわけにはいかなくて。


「 すき、」


少しかがんだ静雄さんの耳元に口を寄せて言えば、一層赤くなった顔と丸くなった目がサングラス越しに見える。
もしかしたら妬いてくれたのかもしれないやきもちと、トムさんには内緒でつないでる手と、静雄さんの真っ赤な耳に、泣きそうなくらいの幸せを感じた。


 



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