「美尋、それ取ってくれ」
「これですか?」
「サンキュ」
「あ、」
「電卓か?」
「ありがとうございます」
「…お前ら熟年夫婦みたいだな」
「はい?」
「え?」
トムさんの言葉に目を丸くしたわたしたちは、顔を見合わせ首を傾げた。
「息ぴったりっつーか何つーか…」
「そうっすかね」
「うん、いやもうびっくりだわ」
書類をとんとんとまとめながら言ったトムさんはなぜか嬉しそうで、わたしたちは再び顔を見合わせ首を傾げる。
昨日の夜に話した通り、事務の仕事をお手伝いすべくここを訪れて早3時間。
緊張しすぎて吐いてしまわないかという恐怖はあったものの、いつも通りあたたかく迎えてくれたトムさんと社長さんのおかげで、何とか最悪の事態を回避することは出来た。
…まあ、トムさんが「この子静雄の彼女さん、これからちょくちょく手伝ってもらうから」なんて風に、他の事務の方々(女性)にわたしを紹介したのには、ちょっとびっくりしたけれど。
「しかし手際いいよな、あっという間に覚えちまったんだから」
「いやいや、丁寧に教えもらえたからですよ」
「それにしたって物覚えいいよ。流石、若い子は違うな」
「あんま褒めると調子乗りますよ」
「…それ前にも言われた気がするけど乗りませんってば!」
そんな言葉を交わしながら、トントンと書類をまとめる。
よし、これで先月の分の計算は終わり、っと。
「ん、もう7時か。美尋ちゃん、キリいいし今日はそこまででいいよ」
「あ、はい、わかりました」
「そんじゃ、俺らも次の回収の前に休憩入れるか」
「そっすね」
腕時計を見て言ったトムさんに書類を入れたファイルを渡せば、「お疲れさん」と言ってジュースをくれた。
ふむ、静雄さんもタバコをくわえているところを見ると、休憩はこのままここで過ごすらしい。
「今日は遅くなりそうですか?」
「いや、多分そんなかかんねえと思う」
「じゃあ終わったら連絡ください。食材は切ってあって、あとはもう調理するだけなので」
「ん」
デスクの上に広げた荷物をカバンの中にしまいながら言えば、静雄さんがわしゃわしゃとわたしの頭を撫でる。
その手が心地よくて、でもよく知らない人やトムさんもいるから少し恥ずかしくて、わたしは2人の休憩の間中顔を上げることが出来なかった。
******
「ふー…」
あれから十数分。
トムさんたちが回収に行くのと同じタイミングで事務所を出たわたしは、1人家への道を歩いていた。
午後7時半を過ぎ、昼間とは違った賑わいを見せるこの池袋という街は、ここ最近、何だか雰囲気が違うような気がする。
「増えてきたなあ、黄色い人…」
辺りを見回せばちらほらと視界に入る、黄色いものを身に着けた若者たち。
まあわたしだって、若いんだからあの人たちのことを若者だなんて言えないけど―…多分、前に綾ちゃんが言ってた“黄巾賊”という人たちなんだろう。
わたしが初めてその存在を知った時はそれほどでもなかったけれど、ここ最近、いたるところで目にすることが増えたような気がする。
「…ん?」
普通にしていれば絡まれたりすることはないだろう。
そう思いつつも、足を速めて家路を急いでいた時だった。
「紀田くーん」
「…あ、美尋さん。どもっす」
目の前を歩く見慣れた茶髪と青い制服に気付いて声をかければ、振り返った彼は立ち止まり軽く手を上げた。
こんな風に外で偶然会うのは何だか久々な気がして、無意識のうちに彼の方へと駆けていく。
「バイトか何かの帰りっすか?」
「うん、そんな感じ」
「お疲れっす」
そう言いながら笑った紀田くんの笑顔に、ほんの少しだけ違和感を覚えた。
確かに、笑ってる。
けれどそれは見慣れた笑みなんかじゃなくて、何だかちょっと、
「紀田くん、何かあった?」
「え?」
「何か、いつもと違う気がする」
それはあくまで“気がする”だけで、「そんなこと」ないと言われれば、わたしの勘違いだったんだと納得出来てしまう程度のものだった。
でもわたしがそう言った瞬間、彼の瞳はぐらりと揺れ、表情が見違えるくらいに強張った。
「え、大丈夫?帝人くんとか杏里ちゃんと喧嘩したりでもした?」
「…いやいや、俺はこの通り元気っすよ!いつもと同じ、セクシーでポップな紀田正臣っす」
「…でも何か、雰囲気違うよ?」
こんなに何度も言って、しつこいと思われるかもしれない。
いや、もしかしたらもう思われているのかもしれない。
けれど、今目の前にいる彼がまとう空気は、今まで幾度となく感じてきた違和感をはるかに凌駕するもので。
「(…でも、言いたくないこともあるよね、きっと)」
かつてのわたしがそうだったように、誰しも言いたくないことの1つや2つあるものなのだと思う。
それに加えて、わたしは帝人くんや杏里ちゃんほど身近な存在でもなく、かと言って何も知らないからこそ話せる他人でもない。
紀田くんにとってのわたしがどういう位置にあるかわからない今、無理に聞き出すのはかえって良くないんじゃないだろうか。
「(…そう、だよね)」
そもそも聞き出そうとしたところで、紀田くんは何も答えてくれないだろう。
これが「ちょっと嫌なことがあって」とかそれとないことを言ってくれたなら別だけど、彼はあくまで“普段の自分”を貫こうとしてる。
…それはつまり、知られたくないんだろうから。
「……えっと、あの」
「どうしたんすか?」
「なんて言っていいのか、わからないけど」
わたしが黙り込んでいたせいで生まれた沈黙は、わたし自身の探るような言葉で破られた。
こういう時にどう言ったらいいのか、年上のくせに気の利いた言葉の1つも出てこない自分に少しだけ腹が立つ、けど。
「何かあったら、言ってね」
「…え?」
「わたしなんかじゃ頼りないと思うけど…でも、話を聞いたりすることは、出来るから」
もし彼がつらい思いをしてるなら、少しでもそれが和らげばいい。
どんなものを抱えて苦しんでいるのかはわからないけれど、それでもわたしは、彼のことを放っておくなんて出来ないのだ。
「わたしが帝人くんや杏里ちゃんみたく、いつも紀田くんと一緒にいるわけじゃないけど…それでも紀田くんのことは、心配してるから」
だから、1人で無理はしないでね。
その一言がどれだけ彼を苦しませるのか、その時のわたしは、まだ知らない。