「え、杏里ちゃん?」
「はい?」
杏里ちゃんが退院した週の土曜日。
わたしは約束通り、彼女と一緒に料理の練習をしていた。
「あああちょっ!ちょっと待って!」
「え?」
「だめだめ、指切っちゃうからっ!」
間一髪のところで止めに入ったことで、指を切る危険性は回避できた…けど。
杏里ちゃん、あなたどうしてそんなに平然とした顔をしているの?
「あの…もしかして、いつもこんな感じで料理してた?」
「…? はい、そうですけど…」
「………そっか、うん、わかった」
危なげな手元に視線を向ければ、冷や汗が頬を伝った気がする。
家に上がってすぐに知った杏里ちゃんの境遇に(わたしと同じ的な意味で)驚いたばっかりだったのに、まさかここまで料理が苦手だとは…今日は色々と驚くことが多い日だ。
「包丁じゃなければもう少し出来るんですけど…」
「え?ピーラーってこと?」
「…っあ、いえ、何でもないです!」
「?」
どういうことだろう。
ピーラーのこと言ってるのかと思ったけど違うみたいだし…通販でたまにやってるスライサーのことかな。
っていうかこれは…うん、アレだな。当日も一緒にいた方がいいかもしれない。
「杏里ちゃん、明日わたしも手伝うよ」
「いいんですか?」
「うん、っていうか手伝わせてください」
「え?」
そうしないと杏里ちゃんの指が何本かなくなっちゃうかもしれない。
…というのは流石に言えないし、今までもこんな感じで料理してたなら問題はないのかもしれないけど。
「(見ちゃった以上は…ねえ)」
とりあえず、今日と明日頑張ろう。
******
「はいっ、杏里ちゃん特製のハンバーグですよー」
「うわ、うまそー!流石俺の杏里と美尋さんっ!」
ほかほかと湯気の立つハンバーグを彼らの元に運べば、紀田くんが嬉しそうに声をあげる。
ふふ、「何言ってんの正臣」なんて言ってるけど、帝人くんも大概顔緩んじゃってるよ。
「じゃ、いただきまーすっ」
「お口に合うといいんですけど…」
少し緊張した面持ちの杏里ちゃんは、もぐもぐと咀嚼する2人を不安そうに見る。
うう、何だかわたしまで緊張してきた。
「ど、どう?何かおかしいとことかない?」
「まっっっじでうまい、これやばいくらいうまいっす!」
「ほ、本当ですか?」
「うん、本当に美味しいよ!園原さん、美尋さん、ありがとうございます」
笑いながら言った2人にほっと胸を撫で下ろす。
ああ良かった、手伝う程度だったしハンバーグなんて作り慣れてるのに、相手が静雄さんじゃないってだけでこうも緊張するものなんだね…
「杏里と美尋さんの手料理が食べられるなんて最高っす!」
「いやいや、作ったのほとんど杏里ちゃんだからね。わたしはたまねぎみじん切りしたくらいだし」
しかし、本当にハンバーグにして良かった。
ハンバーグだったら男の子は大体好きだろうし、料理が苦手な杏里ちゃんでもちゃんと作れたしね。
「でも喜んでくれたみたいでよかった」
「杏里と美尋さんの手作りで喜ばない男はいないっすよ!」
「ふふ、ありがと。それじゃあわたし、そろそろ帰るね」
「え、もう帰るんですか?」
帝人くんの言葉に「この後予定とかあって」と返しながら、荷物を整理して腰をあげる。
やっぱり3人水入らずの方がいいだろうしねー。
「平和島さんの、ところですか?」
「えっ」
「…え、どういうことっすか?」
「平和島って…静雄さんですよね?」
少しだけ微笑みながら言った杏里ちゃんは、紀田くんと帝人くんの反応に「しまった」とでも言いたげな表情をした。
い、いや、いいっちゃいいん、だけど。
「あー…えっと、何ていうか」
「え。これから会うんですか?」
「会う、っていうか…」
静雄さんが待つ家に帰るんです。
…というのは、流石に言えないけれど。
「えっと。この際だから言うけど、わたし静雄さんと付き合うことになって」
「…え、ええええええ!!」
「え、まじっすか?」
「…まじっす」
大げさに驚いた帝人くんの言葉に続き、目を丸くした紀田くんがわたしに問いかける。
うーん…特に紀田くんには言わない方がいいような気がしてたん、だけど。まあいつかバレるだろうしね。
「美尋さんが静雄さんと…」
「…あ、人にはあんまり言わないでねっ、わたしはよくても静雄さんが迷惑するかもしれないし、」
「それは大丈夫ですけど…そっか、だから最近…」
「え?」
突然何かを考え込むような仕草をした帝人くんは、「静雄さんが女の人といるって噂をしてる人がいたんです」と少し慌てた様子で口にした。
まあわたしのことだろうし、一緒にいたのは前からだけど…
「最近は前にも増して一緒にいることが増えたからかも」
「でも本当におめでとうございます。すいません、驚いたりしちゃって」
「そんなそんな、ありがとね」
笑いながらそう言った帝人くんの目は爛々と輝いていて、それに何だか違和感を覚えた。
けどそれ以上に気になるのは、
「…紀田くん?」
「…えっ、あ…すいません、美尋さんがついに他の男のモンになったってショックでちょっと意識飛んでました」
「何言ってんのー」
「いやいや、まじで美尋さんは罪な女っすよ!けど俺があの人に敵うかは微妙だしなー…」
もしかしたら2人がいるからかもしれないけど、言いながら笑う紀田くんに深刻さは感じられない。
純粋にめでたいと、思ってくれているのだろうか。
「でもま、あの人なら美尋さん任せても安心だなっ」
「紀田くんはいつからわたしのお父さんになったの」
「お父さんより旦那になりたい!」
「来良の男の子にそう言われたって静雄さんに言っとくね!」
「ちょっやめてくださいよまじで!」
俺まだ死にたくない!と騒ぐ紀田くんは、多分本当に、純粋に祝福してくれてるんだとうと思った。
だって少し寂しそうではあるけど、彼はこんなにも無邪気で、笑顔で。
「でもま、美尋さんが幸せなら良かったっす」
「…うん、ありがと」
「ほらほら、早く行ってやってくださいよ!正直妬けますけど、他の男のとこに送り出す俺イケメン!余裕あって格好いいっしょ?」
「うわー紀田くん格好いいー」
「棒読みパネェ!」
そんなやりとりに笑うわたしたちの中に流れる空気は、ただただ穏やかで、平和なものだった。
こんな時間がずっと続けばいいと思いながら杏里ちゃんの家を出たわたしは、紀田くんの思いを、まだ知らない。