「おう美尋ちゃん、卒業おめっとさん」
「ありがとうございますっ」
3月上旬の昼、池袋。
いつもと同じ制服姿に紙袋を足したわたしは、卒業証書の入った筒を彼らに見せ付けた。
「お前、本当にこっち来ちまってよかったのか?」
「トムさんと静雄さんの方が先約でしたし、友達とは近いうちに会う約束してるから大丈夫ですよ」
「何か悪いね」
「いえいえ!祝ってもらえるなんてわたしも嬉しいですからっ」
わたしがもうじき高校を卒業することを静雄さんから聞いて知ったトムさんが、お祝いということでご飯に誘ってくれたのが一週間くらい前。
綾ちゃんやその他数名からの誘いもあったけど、眉をひそめながら言った静雄さんに話したとおりだから問題はない。
「美尋ちゃん何食いたい?」
「何でもいいですよー」
「何でもねえ…どうすっかな」
「静雄さんは何食べたいですか?」
「お前を祝うのに俺の食いたいもん食ってどうすんだよ」
確かにその通りだ、と思いながら食べたいものを思案する。
…うーん、トムさんには申し訳ないけど本当に何でもいいんだよなあ。
「せっかくだし寿司でも食うか?」
「お寿司!」
「いいっすね、めでたい感じしますし」
「お寿司!食べたいです!」
「よし、じゃあ寿司にすっか」
良かったな、と言いながら、静雄さんがわたしの手から紙袋を奪う。
重みに気付いてくれたのが嬉しくてお礼を言いながら笑えば、彼も小さく笑ってくれた。
******
「んじゃ改めて、美尋ちゃん卒業おめでとう」
トムさんが音頭をとり、笑いあいながら飲むのは緑茶。
まあわたしも未成年だし2人とも仕事中だから当然なんだけど、緑茶で乾杯ってちょっとおかしい。
そして相変わらずお寿司はおいしい。
「オー、今日メデたい?」
「おおサイモン、めでたい日だぞ」
わたしたちの会話が聞こえたのか、サイモンさんがにこにこしながら近づいてきた。
うん、相変わらずガタイはいいけど癒されるなあ。
「今日高校卒業したんですよー」
「ソツギョー?コノ支配からの?」
「そつぎょおー」
「のるなよ」
静雄さんがぽつりと呟き、わたしたちは再び笑顔に包まれる。
ちょうどその時視界に入ったのは、こちらに近づいてくるカウンター越しの店長さん。
「嬢ちゃん高校卒業したのか」
「あ、はい、そうなんですよ」
「じゃあこれはサービスだ。食ってけ」
言いながら店長さんがコトンと置いたのは、見慣れた黒い粒の軍艦巻き。
…これはもしかして。
「あの、これ、」
「キャビアだ」
確か去年のバレンタインの前日、新羅さんと静雄さんとここを訪れた時に食べたそれ。
すごいおいしくてまた食べたいと思ってたけど、まさかこんな形で再び食べられるなんて!
「ありがとうございます!」
「すげえな、キャビアの寿司なんかあんのか」
「去年静雄さんと来た時も食べたんですけど、すごいおいしいんですよ。トムさんおひとつどうですか?」
「いや、めでたいのは美尋ちゃんだし遠慮しとくわ。でもありがとな」
笑いながらやんわりと言ったトムさん。
…ふむ。店長さんのお気持ちだし、そういうことならいただこう。
「はあ、おいしい…」
「良かったな」
「はいっ」
トムさんと静雄さんだけじゃなくて店長さんまでこんなことしてくれるだなんて、本当わたしは幸せ者だなあ。
そんなことを思えばこぼれる笑みを抑えられず、緩みきった顔のまま咀嚼する。
「あ、そういえばさ」
「んん…どうしました?」
「美尋ちゃん、これからどうすんだ?」
これから。
トムさんの一言は抽象的だったけど、嫌というほどに意味がわかるわたしの顔からは、その瞬間笑みが消えた。
「…お、おい、美尋ちゃん?」
「何でいきなり真顔になってんだよ」
「…ふふふ」
「悪い、俺変なこと言っちゃった?」
「…いえ、そんなことないですよ」
ああ、ついにこの時が来てしまったか。
…いや、本当はもっと早く言わなきゃいけなかったんだ。
気まずそうに言ったトムさんの言葉を否定し、そんなことを考えながら静雄さんの方を向く。
「? どうした?」
「それでは、ここで静雄さんに残念なお知らせです」
残念?
そう首をかしげた静雄さんは、何を言われると予想しているんだろう。
「何だと思います?」
「さっさと言え」
「…すいません。就職先決まりませんでした」
左に座るトムさんから、「あー…」という声が聞こえてきてうつむく。
お皿に入った醤油にうつる自分の顔がこれ以上ないくらいに絶望的で、景気の悪さを改めて憎んだ。
「何だ、そんなことかよ」
「…は?」
「別に今までと何も変わんねえだろ」
い、いまなんと。
まさか過ぎる発言に目を丸くすれば、静雄さんは呆れたように口を開く。
「お前だって家事とかで忙しかったんだろうし、焦って変なとこには就職すんなって前にも言っただろ」
「そう、ですけど」
「別に今のバイト先で働き続けりゃいいじゃねぇか」
「それでいいんですか?静雄さんは、わたしがそんなのでいいんですか?」
こんなことを言っても仕方がないことはわかってる。
でも、だからと言って。
「お前だって、前に俺が俺ならいいって言ってただろ」
「………」
「俺だって同じだっつーの」
ぐしゃぐしゃと頭を撫でられて、少しだけ鼻の奥がツンとする。
本当はずっと前から言わなきゃいけないと思ってて、けどどんな反応されるか怖くて、言えなかったのに。
「…すいません」
「バカ、めでたい日にそんな顔してんじゃねぇよ」
「うあー…」
卒業式の時とはまた別の涙が溢れてきそうになった時、トムさんがスッとハンカチを差し出してくれた。
なんですかその出来る男っぽい仕草!
「うう、すいません…」
「いや、俺こそ何かごめんな」
「トムさんは何も悪くないです…本当なら、もっと早く言わなきゃいけなかったことなので…」
ハンカチを汚さないように、軽く目元に押し当てる。
ああ、もう本当に申し訳ない。こんなところ見せちゃうなんて最低だ。
「あー…そうだな」
「…?」
「仕事先探すなら、これからたまにウチの仕事やってみたらどうだ?」
「は?」
わたしがどういう意味か問う前に声を上げたのは、静雄さんだった。
…えっと、ウチの仕事、って。
「当たり前だけど取り立てじゃないからな。事務の仕事」
「…ああ、そっちっすか」
「そうすりゃ事務の経験あるって言えるだろ?」
今後の仕事探しの役に立つかもしんねえしな。
言いながらお茶をすするトムさんの言葉の意味を理解して、何だかまた目の奥が熱くなった。
ううう、どうしてこんなに優しいんだ…!
「静雄、さんっ」
「あ?」
「たまーに、本当にたまーに、お手伝いしてもいいですか?」
「あー…」
トムさんはこう言ってくれたものの、肝心なのは静雄さんの考えだ。
わたしはすごくありがたいと思ったけど、そこが静雄さんの職場でもある以上、わたしがよければそれでいいというわけにもいかないだろう。
「…だめですか?」
「…たまに、ならな」
そう言った静雄さんは、少しだけ困ったように笑う。
トムさんが「たまに」と言った理由と静雄さんの困ったような表情の理由が、わたしの身を心配してのことだとわかったのは、それから数秒後のこと。