ガツン。
恐らく玄関横の壁を殴ったのだろう、ぱらぱら、というかけらの落ちる音がした。
「………殺す」
「………」
息を切らして帰ってきた静雄さんに抱きついたまま、わたしはただ彼の声を聞いていた。
わたしが何者かに襲われかけた。
そこに偶然自分が居合わせたという体で連絡したセルティが、いつにも増して苛立つ静雄さんにあたふたして、早数分。
「殺す殺す殺す殺す殺す殺す」
《お、落ち着け静雄!美尋ちゃんは―…》
「襲われかけただなんて聞いて落ち着いてられるか!」
セルティが家まで送ってくれた直後、わたしたちは十数分前にしたものと同じやり取りを繰り返した。
やっぱり言った方がいいんじゃないか、相手が斬り裂き魔だということは言わないで。
そんな互いの主張を通すために“斬り裂き魔”は“何者か”に姿を変えたわけなんだけど…
静雄さんに会えた安心感からか、情けないことに静雄さんに抱きつくわたしの腕の力は緩まない。
《本当に落ち着け、わたしだって気持ちは同じだ》
「……チッ」
セルティが必死に静雄さんをなだめる中、わたしは何も言えなかった。
多分静雄さんにしがみつきながら考えることじゃないのに、頭からは臨也さんのことが離れない。
「…もし何かわかったら教えろよ。そいつのこと殺さなきゃ気が済まねえ」
《……わかった》
やっぱりそうなってしまうのか。
そう思ったのと同時に、相手が斬り裂き魔だと言わなくて本当に良かったと思った。
少しの沈黙を置いてセルティが答えたのは、きっとわたしとの約束が頭をよぎったからだろう。
「……」
《…美尋ちゃん、もう大丈夫?》
向けられたPDAに頷きながら「ありがとう」と呟けば、彼女の手がわたしの頭の上に乗った。
《じゃあわたしはもう行くよ》
「…おう、ありがとな」
《気にするな。それじゃあ》
そう言ってセルティの帰った玄関に、わたしと静雄さんだけが残される。
…何を言ったら、いいのだろう。
「……美尋、」
「……はい」
「…大丈夫か?」
ぎゅ、といっそう強くなった腕の力に、静雄さんが小さくため息を吐くのがわかった。
それが安堵のため息か呆れのため息か、どちらなのかはわからない。
「…っと」
「…わ、っ!」
「暴れんなよ、落ちるから」
わたしを抱き上げた静雄さんは、わたしのことを軽々と持ち上げて部屋の中へ入っていく。
ちょちょ、ちょ、!静雄さん!
「ほら」
「…?」
「我慢なんてしてんじゃねぇよ」
ベッドにもたれるようにして座った静雄さんが、足の間にわたしを座らせる。
向き合う形ですっぽりとおさまったそこから何気なく見上げれば、今までにないくらい、静雄さんの顔が近くにあった。
「怖かったな」
「…え?」
「もう大丈夫だ」
怒りと悲しみの混ざったような静雄さんの目に、わたしの頭の中は恐怖と罪悪感で埋め尽くされる。
怖かった、死んじゃうかと思った。けど臨也さんが助けてくれて、その時の様子は、必死そうで。
「…しずお、さん…」
「ん」
「うぅ…っ、う」
ぼろぼろと落ちる涙をぬぐいもせず、すぐ目の前の静雄さんに抱きついた。
きっと静雄さんは、わたしが恐怖感のせいで泣いてると思っているんだろう。
それだって嘘じゃない。それどころか涙の理由はそれでしかなくて、でも、わたしの頭を埋め尽くすのはあの人のことで。
「…静雄、さん」
「ん?」
「ごめんなさい、」
お仕事を抜けさせてごめんなさい。心配かけてごめんなさい。
でも一番は、あの人を信じられるかもしれなくて、そして嘘をついてごめんなさい。
わたしが謝った本当の理由を知らずに背中を叩く手のぬくもり感じながら、わたしは初めて彼の腕の中で眠った。
******
「……はあ」
俺の胸に寄りかかって眠る美尋を見ながら、俺は小さくため息を吐いた。
「…寝てるよな」
しっかりと俺の服をつかむ手に触れてみるも、かたく握られたそれは離れそうにない。
…布団出すのは面倒だし、ベッドに運ぶにもこれじゃあな。
つーかまず体勢を変えた時点で起きそうだし…ったく、どうしろっつーんだよ。
「……う、」
「っと……起きたか?」
「……」
頬に涙の跡を残す美尋は軽く身じろぎをしただけで、その目が開く気配はない。
あんなに泣いた美尋を見たのは、多分あの日以来だったと思う。
ここで一緒に暮らすきっかけになった出来事を思い出せば、無意識のうちに奥歯がギリッと音を立てた。
「…ん?」
すげぇ怖かっただろうな、こいつ。
そんなことを思いながら美尋の髪に指を通した時、ポケットの中で震える携帯に気付いた。
…トムさん?
「もしもし?」
『あ、静雄か?美尋ちゃんは?』
「あー…今寝てます」
『おお、無事だったか。良かったな』
セルティから美尋が襲われかけたという連絡を受けて、仕事も放って帰ってきた数時間前。
…あーやべえ。トムさんに何も連絡してなかったな。
「…すいません、途中で抜けちまって」
『あーいいっていいって。俺ももう上がったし』
それより、美尋ちゃん大丈夫だったか?
電話の向こうから聞こえてくる先輩兼上司の声に感謝をしながら、美尋の髪に再び指を通す。
「俺の知り合いが偶然居合わせたみたいで、何とか大丈夫でした。まあすげえ泣いたりはしましたけど…」
『そりゃそうだよな…でもま、無事だったなら一安心だわ』
「マジですいません、迷惑かけて」
『気にすんなって。…あ、そうそう、電話の本題言わねぇと』
本題?
俺がそう聞き返せば、トムさんは少し呆れたような声で続ける。
『お前財布落としてったぞ。んで、今お前ん家向かってんだけどよ』
「……マジっすか」
『おう。出られるか?』
「あー……」
どうしたらいいんだ俺。
美尋を起こしてしまう可能性がありながら体勢を変えるか、それともトムさんにこの光景を見られるか。
…マジでどうしたらいいんだよ。
「…俺、今身動き取れないんですよ」
『は?何で?』
「…あー…何て言ったらいいんすかね」
この状況をどう説明していいかわからないでいるうちに、『もう着くぞ』という声が聞こえてきた。
…仕方ねえか。こいつもあんなことがあった後で寝てんだから、起こすのは可哀想だよな。
「すんませんトムさん、鍵開いたままなんで、そのまま上がってきてもらえますか?」
『俺は別にいいけど…そんじゃ今着いたから入るぞ?』
「……っす」
ドアの向こうからトムさんの声が聞こえてきて、俺はまたため息を吐いた。
仕方ない仕方ない仕方ない。こいつを起こさないためなんだと、自分に言い聞かせながら。
「………静雄?」
「……すんません」
「……いや、何について謝ってんだよ」
俺にだってわからねえ。
ただこの光景を見て目を丸くしたトムさんに、謝らずにはいられなかった。
「…どういう状況だ、これ」
「あー……この状態で話聞いてたんすけど、泣き疲れたみたいでこのまま寝ちまったんですよ」
「ああ、なるほどね…」
まあ仕方ねぇか。
テーブルの上に俺の財布を置いたトムさんが苦笑した。
「…で、どうすんだ?このままじゃお前も寝らんねえべ」
「あー…もう諦めました。こいつ起こすのも可哀想だし」
「そっか。まあ明日は休んでいいから、美尋ちゃんのそばにいてやれよ」
「…すいません」
軽く頭を下げながらベッドのシーツを引っ張れば、しゃがんでいたトムさんが立ち上がる。
「そんじゃ俺行くわ」
「はい、ありがとうございました」
歩いていくトムさんの背中を見ながら、美尋の背中にシーツをかける。
とりあえずとポケットから出した煙草に火を点ければ、美尋が少し笑った気がした。