どこか嫌な空気の漂う夜。
数日前にチャットで斬り裂き魔の話を聞いて以来、やたらと斬り裂き魔についてのニュースを目にするようになった。
そんな矢先にバイトが長引いて帰りが遅くなったからかもしれないけど、とにかく、今夜はいつもと違う空気が漂っているような気がした。


「…疲れたなあ」


午後8時半を回った頃だった。
斬り裂き魔による被害者が15人を越えたとか、斬り裂き魔と首なしライダーの関連が噂されてるとか…前者はともかく後者に対しての馬鹿馬鹿しさにため息を吐きながら、暗い夜道を1人歩く。
まわりの家は家族での団欒中なのだろう、電気こそ点いているものの、わたしの周りは人っ子一人いない。


「…いや、大丈夫だよね」


家の明かりしかない道。誰も歩いていない道。
それにわずかな不安を覚え、自分に言い聞かせるように呟いた時。
背後から聞こえてきた足音に、背筋に季節はずれの汗が流れるのを感じた。


「…………」


……いやいやいや。
タイミングがいいのか悪いのかはわからないけど、とにかくアレだよね。
偶然わたしが斬り裂き魔について考えていた時に、偶然帰る方向の同じ人が後ろから歩いてきただけだよね。

どくどくとうるさくなってきた心臓にそう言い聞かせ、走ることはないまでも、先ほどよりも速いペースで歩き出す。


「………」


背後からの音に耳を澄ませ、出来るだけ足音を立てないように歩いてみる。
…も、相手はわたしと歩調を合わせるように、まったく同じペースで歩いてくる。

どうしよう。斬り裂き魔じゃないならそれが一番だけど、仮に変質者だとしたらそれはそれですごく嫌だ。
…けど人の多い通りはここから離れてるし、仕方ないから電話してるふりをするか、本当に静雄さんに電話しよう。
そう思って携帯を出した、


「…あ、」


ん、だけど。
無意識のうちに手が震えていたらしく、落ちた携帯はコンクリートにぶつかってカシャンと音を立てた。
ああもう、どうしてこんな時に。
そう舌打ちをしたくなったのをこらえしゃがみこんで、


「…え?」


ちらりと目をやった背後の人物に、振り向いたことを一瞬で後悔した。
弧を描く口元、真っ赤な瞳、そして街頭の光を受けて輝く刀のような何か。
それらを認識した瞬間、体中が“逃げろ”と警報を鳴らした気がした。


「……っ」


早く逃げなきゃ。人の多いところに行かなくちゃ。
一歩一歩、決して速いとは言えないペースでその人が近づいてくるのを感じながら、脳がそう命令する。
けれど心臓は早鐘を打ち、体はまるで金縛りにでもあったかのように言うことをきいてくれない。


「や…っ」


お願い、誰か助けて。
恐怖だけが頭の中を支配して、目から涙がこぼれそうになった時。


「何してんの、っ」


聞き慣れたような声が聞こえて、わたしの腕が勢いよく引っ張られた。


「っ、」


誰、どうして。
混乱するわたしの耳に空を切る音が届いた瞬間、ついさっきまで立っていた場所を、光る何かが振りきった。


「…これはちょっと、まずいかもね」


わずかに焦った様子で呟いたその人は、手を掴んだまま走り出す。
その時わたしの目の前では、見慣れたファーが揺れていた。



******



「っはあ、はあ…っ」

「大丈夫?」


息ひとつ乱していない“誰か”にそう声をかけられるも、苦しすぎてうまく言葉がつむげない。
何でこの人こんなに足速いんだよ…!


「飲み物飲む?」

「いえ…だいじょ、ぶ、ですッ」

「そう」


煌々と光る自販機を指差しながら、彼はそんな言葉をかけてくる。
聞きたいこととか言いたいこととか、いろいろあるっていうのに。


「あ、のっ」

「何?」

「なんっ、で…臨也さんが、っ」


何であなたが、どうしてあの場所に。
そんなことが頭の中をぐるぐるとめぐり、息も絶え絶えになりながら何とか搾り出した声に、目の前の人がくつりと笑った気がした。


「仕事が終わって時間があったから、美尋ちゃんのことからかいに行こうと思ったんだよ」

「…っ、そんな、」

「そしたら君が斬り裂き魔に襲われそうになってて、馬鹿みたいに動かないもんだからさ」


馬鹿みたいにって失礼な。
ぐさぐさと刺さる臨也さんの言葉に眉間に皺を寄せたけど、事実だから否定は出来ない。
そんなことを思いながらもとりあえずはお礼をと顔を上げて、少し驚いた。


「…え、」

「……何?」


小馬鹿にしたような声に反し、臨也さんは、呆れたような、けど怒ったような顔をしていた。


「…何で、助けてくれたんですか」

「助けない方が良かった?だとしたら余計なことをして悪かったね」

「そんなこと、っ…ちゃんと、ありがとうございますって、思ってます…っ」


珍しく刺々しい言葉に、無意識のうちに唇を噛んでいたらしい。
ほのかに滲む血の味が不快で、やっぱり飲み物を買ってもらえばよかったと思った。


「…だから言ったのに」

「…え?」

「気をつけろって言ったでしょ?」


臨也さんの言っていることがよくわからない。
ここ最近、わたしはこの人に会ってなければ、連絡だって取り合ってない。

そこまで考えて、ここ最近自分に「気をつけろ」と忠告してくれた人のことを思い出す。
…静雄さんと、甘楽さん。


「……いや、まさか、」

「どうしたの?」


その声に顔をあげれば、さっきの表情なんか嘘だったみたいに、臨也さんはいやらしい笑みを浮かべていた。
いつも通りなのに、嫌な笑顔なのに、何故か今は安心する。


「っあの、臨也さんは、」

「それじゃあ俺はもう帰るよ。斬り裂き魔に会いたくはないからね」

「え、ちょっ、」


臨也さんは、甘楽さんなんですか。
言い切る前にそう言った臨也さんは、わたしをチラチラと見ながら、取り出した携帯でどこかに電話をかけている。
…あ、終わった。早い。


「美尋ちゃんはここにいな」

「え?」

「すぐ来るから」


来るって何が?
そう聞く前にわたしに背を向けた臨也さんは、どこかに向かって歩き出す。
夜9時過ぎの池袋の街には、ただ1人わたしだけが取り残された。


 



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