「わ、素敵」
まーくんとともに家を出てから、一時間ほど経っただろうか。
柳家に着き、彼に通された部屋で私が目にしたのは、色とりどりの浴衣だった。
「姉のものだが、身長もさほど変わらないしサイズは合うだろう。好きなものを選ぶといい」
「わかった」
初めて訪れた柳くんの家はまさしく日本家屋といったお宅で、ずらりと並んだ浴衣や着物がしっくりくるほど立派なたたずまいだった。
華やかなピンクに爽やかな青や白、大人っぽい紫もあれば落ち着いた紺や黒もあるし…色だけじゃなく柄もそれぞれ素敵だから、どれにしようか迷っちゃう。
「長いこと着てなかったから少し面倒に思ってたけど、いざ目の前にあるとわくわくするね」
「女物は特に華やかだからな」
「ね、どれもかわいくて迷っちゃう」
さてどれにしようか。
こんなことならまーくんも連れてきたら良かったと、今頃私と同じように浴衣を選んでるだろう彼のことを思い浮かべて息を吐く。
「…柳くん、ちょっと待ってて」
「どうした?」
「まーくん呼んでくる」
柳くんの返事も聞かずに襖を開いた私が彼らのいる部屋の前に着けば、そこからはうるさいくらいの騒ぐ声が聞こえてきた。
……仮にも人の家だっていうのに、もう少し大人しくできないのかこいつらは。
「まーくん、ちょっと」
「ん?」
「ごめん、今平気?」
「平気じゃけど、どうしたん」
「浴衣いっぱいあってね、どれにしようか迷ってるから一緒に選んでほしいの」
襖を少しだけ開いて顔をのぞかせた彼に言えば、不思議そうだった顔が一瞬にして笑顔になる。
…面倒と思われるならいざ知らず、どうして嬉しそうな顔になるんだ――…なんて、あまりにも今更過ぎる。彼だから、そうなのだ。
「気に入るのなかったんか?」
「ううん、みんなかわいいの」
「そか、どんなんがええじゃろうなあ」
「色も柄もってなると難しいんだよね、なかなか」
数十秒ぶりに開いた襖の向こうにいた柳くんはなぜだか目を伏せていて、私は無意識のうちに首を傾げる。
けれどすぐ後ろに立つまーくんが、早く入れとばかりに私の背中を小突くものだから。
「あのね、まーくん」
これとこれとこれと、あとこれで迷ってるんだけど。
並んだ浴衣を指差しながら見上げれば、まーくんは嬉しそうに笑う。
だから数秒前までのことなんてすっかり忘れちゃって、そんな私は、馬鹿なだけじゃなくひどく残酷な人間なのだ。
「じゃあこの2つならどっち?」
「こっちの方がええと思う。芽衣子も好みじゃろ?」
「流石ー、私のことに関しては右に出る者はいないね」
「当たり前じゃ」
浴衣を体に当てがって笑い合う2人を見ていると、どうにも胸がざわついた。
谷岡の笑顔と、それを眺めて微笑む仁王に、お前の入り込む隙は微塵もないのだと見せつけられているような気になった。
「それじゃ柳くん、着つけてくれる?」
「…ああ、わかった」
「中にキャミソールとか着てきたから、これ脱いじゃうね」
言いながら服に手をかけた谷岡に心臓がどくりと鳴ったが、すぐ下に着ていた黒いそれに嫌な汗が一瞬で引いた。
けれど薄手のそれはピタリと肌に張り付いていて、俺の背中にはまた、引いたばかりの嫌な汗が流れた気がする。
「あ、帯はこれでお願い」
「…ああ」
「そうだ、まーくんまだ戻らないでね、似合ってるかちゃんと見てほしいから」
「ん」
浴衣越しに伝わってくる谷岡の体温に、心臓が高鳴る。
夏の暑さだけじゃない、勢いよくめぐる血液のせいで全身が熱く、火照っているような感覚だった。
顔が赤くなってしまっているのではないか。
熱を帯びしっとりと汗をかいた手から、俺の動揺や緊張が伝わってしまうのではないか。
そう不安になりながら着つける浴衣はまるで谷岡のために作られたのだと思えるほどこいつに似合っていて、大量に作られたもののひとつだなんて、まるで信じられない。
なのに、こんなにたくさんの浴衣の中から、ただひとつこれだけを。
「……………」
仁王はこれを選んだ。
谷岡が好むのはこの浴衣だと、こいつに一番似合うのはこの浴衣だと、仁王は理解していた。
理屈でも何でもなく、経験や直感から選んだ。もしかしたら、“知っていた”という方が正確かもしれない。
こんな日を迎えずとも、わかっていたはずだった。
消えろ消えろと願っているだけで消えるものではないと、どこかでわかっていたはずだった。
それでも仁王は俺の仲間で、仁王は谷岡のことが好きで、大切で。それはずっと昔からの話で、谷岡も同じで。俺と谷岡は、まだ出会って半年も経っていない。
時間がすべてだとは思わないが、それでも2人の絆は深く強く固いもので、俺なんかが入り込めるわけがなかった。
だから俺は、
「柳くん?」
自分の気持ちを押し殺すのではなく、はっきりと、しっかりと殺さなければならないと思った。
そうでなければ俺は、きっとこの小さく白い体ひとつでは受け止めきれないほどのどす黒く汚い感情をぶつけて、色々なものをこいつに求めてしまって、たくさんの傷をつけてしまうのだと思った。
けれどどれだけ言い聞かせても、谷岡を嫌いになることもただひたすらに仁王の幸せを祈ることも、なにひとつ叶わなかった。
その声で名前を呼ばれ、大きな瞳いっぱいに俺の姿を映されると、どうしても嬉しくなった。心が温かく、これを幸せを呼ぶのだと思った。
「ねえ、柳くん」
心地いい声が、体にすっと染み渡った。
不機嫌そうな表情で俺を眺める瞳に、今こいつの頭の中には、俺しかいないのだと思えた。
こんなのきっと仁王にとっては当たり前だろうに、俺にとってはこれ以上ないくらいの幸せで。この時間が、永遠に続けばいいと願いたくなって。
「 …ああ。ちゃんと聞いてるよ」
俺の声が谷岡に届いて、1ミリでも心が揺れ動けばいい。
そんな愚かな願いは、俺の心の中で小さく息絶えた。