この気持ちは何なのだろうか。
涙を流す谷岡を抱き締めながら、薄暗闇の中で考えた。
「落ち着いたか?」
「…ううん、」
「正直だな…」
こういう時は大抵、口先だけでも肯定して気丈に振る舞ったり、取り繕ったりするものだと思うんだが――…どうやらこいつには、そんなもの世間的なものは通用しないらしい。
そんな、ずっと前からわかっていたことを改めて思った。
「…みんな、帰ってこないって。おかしいと思ってるかな」
「さっきから連絡がひっきりなしに来てるからな」
「はー……もう本当、」
「…何だ?」
「ありがたいようで、鬱陶しいようで」
ずっと俺の肩に顎を乗せていた谷岡は、呟きながら体勢を整える。
首疲れた、と言った谷岡の目元はまだわずかに濡れていたが、ピーク時と比べれば多少は落ち着いたのだろう。
それまで撫でていた背中から手を退け涙を拭えば、くすぐったそうに少しだけ笑った。
「もう閉会式をしている頃だろうな」
「…柳くん、行かなくていいの?」
「行っていいのか?」
「駄目だけど」
「なぜ聞いた」
「ふふ」
形だけでも聞いた方がいいかと思って。
あまりにも正直に言った谷岡は笑いながら、フンと鼻を鳴らす。
「柳くんもさあ、相当私のこと好きだよね」
「…ん?」
「私のわがまま聞いてくれるし、甘えさせてくれるし」
これは甘えというのか、と少し疑問に思ったが、谷岡にとってこれが甘えならそれでいいと思った。
この程度のことでこいつの心が落ち着くのなら、安らぐのなら、いくらでもこうしてやろうと思った。
いくらあいつがこいつのことを好いていたとしても、俺は応援すると約束したとしても。
それでも俺は、こうして谷岡を抱き締め、この小さくて丸い頭を撫で、潤んだ瞳から零れる涙を拭ってやりたかった。
俺を慕い、弱さをさらけ出し、あいつに縋ることも出来ず、俺を頼り涙を流す谷岡を。
「――……好きだ、」
きっと、愛しく思っていたのだろう。
腫れかけの赤い目も、雫で揺れる長い睫も、俺を呼ぶ静かな声も。……あいつとよく似た、薄い唇も、白い肌も。
愛おしくて大切で、失いたくなくて。
なぜだか俺は、泣きたくなった。
「…お前の言う通り、俺はお前のことが好きだ」
「 柳 くん、?」
「……お前が、好きだ」
だがきっと、これは恋ではないな。
なぜならあいつはこいつのことが好きで、こいつはあいつに言えないことを、俺には言えて。
恐らくそれは俺じゃなくても、例えば丸井や精市でも、柳生でも。
きっとあいつでなければ、誰に対しても言えたのだろうから。
ただあいつにだけは、絶対に言えなかったのだから。
「…どう、したの?」
だからきっと、これは恋じゃない。恋なわけがない。
もしこれが恋だとすれば、俺はあいつを裏切り、恐らく谷岡を悩ませてしまうだろう。
想いを口にしなければいいかもしれないとも思ったが、俺はそこまで完璧な人間ではない。
自分が想う女とほかの男が親しくしていれば嫉妬をするし、独占したいとも思う。ただ黙って見ていることなんて出来やしない、醜い人間だ。
だから俺は、こいつに想いを告げることはできない。
存在してはいけない感情など、持っているべきではない。
あいつとこいつ。
俺にとって大切な2人の幸せを奪ってしまうくらいなら、この気持ちは、恋じゃない方がいいのだ。
「…ふぎゃッ」
目を丸くして俺を見つめていた谷岡の鼻をつまめば、まるで驚いた猫のような声をあげた。
…そうだ、俺は何を考えていたんだ。こんな計算も出来なそうで自分の思いのままに生きている谷岡など、俺が好きになるわけがない。
だから、
「…柳くん?」
少しだけ。
最後に少しだけこいつを抱き締めることを、許してくれ。
そうすれば俺はきっと、こいつを離した瞬間からいつもの俺に戻れるから。
俺の心の中のあいつに懺悔しながら、俺は谷岡の腰と頭に腕を回した。
「今度は柳くんが甘えん坊なの?」
「…そうかもしれないな」
少し、疲れたのかもしれない。
谷岡の細い肩口に顔をうずめ、俺は囁くようにつぶやいた。
「仕方ないな、柳くんは」
谷岡の小さな手が、俺の頭をそうっと撫でる。温もりに、涙が出そうになる。
高校3年の7月のある日、正午を回った理科室の片隅。
俺の恋ではない何かは、失恋した。