カチ、コチ、カチ、コチ。
誰に求められることもなく、誰に見られることもないのに動く時計の秒針の音だけが、俺たちの間に流れていた。
「ごめんね、谷岡さんじゃなくて」
キュッ。
上履きの音を鳴らし、あいつが一歩近づいてくる。
「でも、びっくりした。まさかあの頃と同じように呼んでくれるなんて思わなかったから」
キュッ。
何一つ言葉を発しない俺に構わず、あいつがまた上履きを鳴らす。
「ねえ、“マサくん”」
キュッ。
あの頃と。数年前のあの頃と同じ呼び方で俺を呼んだこいつが、1メートルほどの距離を保って立ち止まった。
「…お前さん、何しに来たん?」
「警戒しなくても、別に私は代えのタオルを取りに来ただけだよ。っていうか、自分こそそうじゃん」
何でわざわざ、球技大会の真っ最中に教室になんているの?
そう言いたげな視線に、俺はごくりと息を呑んだ。
「……俺も、似たようなもんじゃ」
「ふうん、そっか」
短く言った三宅は、自分の机の横にかけられたバッグからタオルを取り出す。
そうして、そのすぐ後ろの席を。
俺の右斜め後ろの席を、一瞥した。
「……谷岡さんのこと、本当に好きなんだね」
「…は、」
「別に隠さなくてもいいよ。見てればわかるから」
三宅は、本当にそう思っとるのかわからん目で笑った。
「仁王がまた“三宅ちゃん”って呼ぶようになって、もう2年以上経ったんだね」
「…………」
「一度も言ったことなかったけど、私本当は傷ついてたんだよ。呼び方が変わったのも、付き合う前と同じ態度で接してこられてたのも。…まるで、あの時間が存在してなかったみたいだったから」
けど、やっと言えた。
そう言って苦笑した三宅に、俺は再び息を呑んだ。
別に俺は、悪いことをしたとは思っとらん。
良いことをしたかと聞かれれば首を横には振るが、だからと言って悪いことをしたわけではないと思っとる。世の中、白と黒だけで片付けられんことの方が多いんじゃ。
なのに、何で俺は焦っとるんじゃろう。
こいつとの過去を芽衣子が知らんから?知られたら、どうなるかわからんから?
いくら自分に問いかけてもそんなことはわからんまま、ただ時計の秒針の音だけが、俺を急かす。
「…あ。でも安心して、別に今更すがりつこうだなんて思ってないよ」
そう言って踵を返し歩き出した三宅に、俺は内心ほっとした。
「ただ、さ」
キュッ。
またも上履きの音を立てて、三宅が立ち止まった。
「私のこと好きでもないのに、告白されたからって付き合って。結局最後まで何も思わないまま、好きにも嫌いにもならないまま、私のことを振って」
三宅が、言葉を発するごとに。
「私に対して何の感情も抱かないままだったあんたが、あの子のこととなると必死になって、柄にもないことしちゃったりして」
三宅のタオルを握る手が、震えていることに。
「私じゃ絶対に動かせなかったあんたの心をいとも簡単に揺さぶっちゃのがさ」
三宅の声が、今にも泣き出しそうだということに。
「ちょっと、悔しいよね」
三宅のわずかな変化を感じ取るごとに俺の心は罪悪感で包まれて、ああ俺はきっと人でなしだったんじゃな、とか、こいつの気持ち考えとらんかったな、とか。
そんな、いろんなことを思った。
だからって俺は、今更こいつのことを好きになることはできん。俺は芽衣子が好きなんじゃ。
誰に何を言われようとそれは変わらなくて、変えられなくて、どうすることもできん。
けど、ただ一つ、俺にできることがあるかもしれんと思った。
だから俺は、
「―――三宅ッ、」
ガラガラガラッ
口を開こうとした時、聞こえてきたそんな音に。
「 三宅 さん、?」
目に映った女の姿に、たった3文字の言葉すら、言えなくなってしまった。