私が立海大テニス部のマネージャーになり、早一週間。
新しい生活習慣にもそろそろ慣れてきたという頃、ある出来事が起きた。
「あれ」
それは朝練も終わり、下駄箱の蓋を開けてローファーをしまおうとした時。
本来そこにあるべき上履きの不在に気付いたわたしは、無意識に声を上げた。
「…昨日、ちゃんとしまったはずなんだけどな」
そう独り言を呟いた瞬間、どこかから聞こえてきたクスクスと笑う声。
何だかそれが耳について声がした方を見れば、ひらりと風に吹かれたスカートが曲がり角の向こうに消えた。
「……………」
そういうことか。
きっと先月…とまでは言わないまでも、少し前までの私だったら、どうしてこんなことが起きたのか理解できなかっただろう。
けど、今は違う。
転校して2週間くらいの時に向けられた陰口、そしてその陰口の原因や変化した私の立場を考えれば、自分の身になにが起きてるかなんてすぐにわかった。
「……いじめか、」
幼稚だな、言いたいことがあるなら言えばいいのに。
今回は思い当たる節があったからいいものの、基本的には思ったことはちゃんと口にしないと伝わらないよ。
…まあ、そのことを言おうにも相手が誰かわからない以上はどうしようもないんだけど。
いや、そんなことよりまずはこの状況をどうにかしないと。
何か騒いでたから部室に置いて来ちゃったけど、ブン太やまーくんが校舎に向かってくるのだって時間の問題だ。
「……………」
一緒に暮らしてるまーくんを前に忘れたって言い訳は通用しないだろうし、明日以降のことを考えると早めにどうにかしなきゃいけない。
……うろ覚えだけど、ネクタイとか上履きは在庫があれば学校の中の売店で買えるって、転校初日に先生が言ってたような気がする。
ということで、
「…ごめんまーくん、ちょっと借りる」
売店で上履き買えたらすぐ戻しに来るから、少しだけ貸してね。
心の中でそう言って、ぶかぶかな上履きをひっかけた。
「あ、やっぱいた」
あれから急いで売店で上履きを買い、まーくんの上履きを下駄箱に閉まって、まさに爆走という表現がぴったりな勢いで教室にやってきた。
その私から遅れること約3分。
教室に入ってきたブン太とまーくんに視線を向けたわたしは、急いで良かった、と胸を撫で下ろした。
「先教室来んなら言えよなー」
「…だって、なんか騒いでたし。いいかなって」
切原くんと一緒になってなにかしてたでしょ。
そう付け足して言えば、「そーだけど」と唇を尖らせたブン太が席について、バッグからお菓子を取り出した。
…よし、気付かれてはいないみたい。
「ちゅーか聞いて芽衣子、さっきめっちゃ怖いことあったんじゃ」
「…怖いこと?」
ブン太に続いて席についたまーくんは、わずかに眉間に皺を寄せながらこちらを振り返る。
怖いことってなんだろう。私の場合絶賛起きてるっていうか今後も頻発しそうな予感がしているんだけど。
「何か上履き履いたらぬくかった」
「は」
ぬくかった、って、まさか。
「何でか知らんけど、履いたら人のぬくもり的なのがあってのう。気持ち悪いなり」
「…あれじゃん、優しい誰かが冷え性な仁王のためにあっためといてくれたんじゃない」
「もう5月なんじゃけど」
「冷え性って時期関係なくいつでも冷えてると思うよ」
まさかも何もない、確実に私だ。
……でもこの表情を見る限り、本当にただ気持ち悪いって思ってる感じだし…うん、ばれてないならなんでもいい、とりあえずは。
「ってことで、私は寝るので」
「は?」
「寝るんか」
「眠い。朝練疲れた」
眠くなんてない。疲れてなんてない。
けどあんまり長く話すとボロが出そうで、これ以上悪化してみんなに気付かれるのが怖くて。
まーくんがそばにいてくれるっていうのに、だからこそ助けを求められないだなんて、神様の馬鹿野郎。
非情な現実に別れを告げるべく、私はゆっくりとまぶたを閉じた。