1 「――アブラクサス」 もう寝るわ、と部屋に行ってしまった鈴緒の背中が扉の向こうに消えた後、僕は――俺様は足を組み直した。思考も偽れと言ったのは鈴緒で、自分さえ騙してこそ他人を完璧に騙せるのだと言われた時には納得するしかなかった。 「は、我が君」 椅子に座ったまま俺様としゃべるなどという傲慢は許さないし、アブラクサスも分かっているからだろう、瞬時に床に膝を突いた。 「鈴緒を殺したとは、どういうことだ?」 鈴緒は生きている。ピンピンしすぎなほどだが、今も生命活動を続けている。だがそれは鈴緒が不死者であったから叶った現実だ。もし鈴緒が死んでしまっていたとしたら――俺様はこいつの命を奪うことに何の呵責も感じないだろう。 「お、畏れながら――死喰い人の中でも、鈴緒、いえ、鈴緒様に不信を抱くものは多く」 アブラクサスは声を震わせる。ここで俺様に殺されるのだと思っているのだろうが、鈴緒がああ言ったのを忘れたのか? 「ああ、それで?」 続きを促す。さっきよりは苛つきも収まってきたが、だがまだ許せない。 「このままでは我が君にまで不信を抱きかねず、私も――無用の者と……邪魔だと考えましたので」 俺様のため、だとかという奇麗事しか言わなかったら殺していただろう。だが鈴緒はこいつをストレス解消要員にすると言っていたし、この男はまだ使える。命永らえたのは幸運と思え。 「分かった。下がって良い」 驚いた様子を見せたアブラクサスだが、それもすぐにいつもの調子に戻った。 俺様は紅茶を飲み干した。鈴緒が淹れたから色つき水以下の味だが、あいつらしくて逆に安心する。今度からはまた俺様が淹れてやらねばならないなと思うと唇が自然に笑んだ。 「全く不味いな」 口の中は最悪だ。茶葉をドブに捨てているようなものだし、いや、ドブに捨てる方がましかもしれない。だが新しく淹れて口直しをするつもりはさらさらない。口元に手をやって、紅茶に濡れた唇を親指で拭った。先ほどの会話での言葉を思い出す。 『私まで巻き込まれちゃ困る。私が裏街道走ったら泣く人がいるんでね』 鈴緒が聞いているはずもないが、訊ねるように呟いた。 「鈴緒、お前が――」 お前が悲しませたくないと言った、見も知らぬ者に。この俺様が嫉妬したと知ったら、どう思う? |