「…あ、ネイガウス先生。授業、お疲れさまです」


 職員室でパソコンの画面とにらめっこしていたら、ガラリとドアが開いた。そういえば、さっきチャイム鳴ったっけ。のんきに思いながら、わたしはドアを開けた主に声をかける。先生はそれに対し、ああ、と呟くように返した。

 マウスから手を離し、わたしは席を立った。あらかじめ作っておいたコーヒーを注いで、それを先生の机に置く。添えたのは、小さなティースプーンだけ。砂糖とミルクがいらないことは、ちょっと前に学んでいた。

 すでにネイガウス先生は席につき、数枚のプリントを机上に並べている。コーヒーに気づくと、かすかに笑みを浮かべた。


「ああ、すまない。…それにしても、奥村燐はよく寝るな」


 忌々しいとでも言いたげに、眉をしかめてみせる。その隙にプリントを覗きこめば、1枚だけ白紙の解答用紙が見えた。ああ、奥村くんの小テストだ。思わず苦笑を飲み込む。ネイガウス先生はコーヒーをひとくち飲み、相変わらず美味い、とまた少し口元をゆるめた。


「ありがとうございます。でも、奥村君は本当こまりますよねえ。起こしたら起こしたで、『スキヤキ!』とか叫んで…。こっちまでよだれが出ちゃいますよ!」

「…それは佐藤の問題だろう」

「えー、そうですか?」


 背中合わせにいつも通りの会話をしながら、カタカタとキーボードを叩く。よし、これで一段落だ。きちんと保存したことを確かめ、シャットダウンをする。腕を伸ばせば、凝り固まった筋肉が痛んだ。

 さて、片づけようか。ノートパソコンのフタ部分に、ゆっくりと手をかけた時だった。


「…食べに行くか、すき焼き」


 わたしは思わず、真っ暗な液晶に反射する広い背中を見つめた。珍しいことがあるものだ。普段なら、ほかの教師陣が誘っても断ることの方が多いはず。いったいどういう風の吹き回しかしら。

 やっぱり先生も、スキヤキを食べたくなったのだろうか。お肉をがつがつ食べるタイプには見えないけれど、奥村くんに影響されたのかも。

 さて、どうしよう。わたしはフタに手をかけたまま、焦点をぼんやり遠ざけた。しかし、せっかくの貴重な誘いを、断る理由は見当たらない。声を弾ませて、わたしは液晶に視線を戻した。


「いいですねー。最近、講師仲間と一緒に、わいわい食べることも減ってましたし。今夜なら、会議もないですよね。そうだ、山下先生とかも誘っ、て…」


 液晶の中の先生と、目が合った。

 パソコンに触れた指が震える。いつの間に振り返ったんだろう。さっきまで、確かに背を向けていたはずなのに。

 先生は、反射越しにでもはっきりとわかる、真っ直ぐな瞳でわたしを見つめた。


「俺と二人では、駄目か」


 すぐには、言葉が出なかった。静まり返った部屋に、自身の心臓だけがうるさく跳ねる。ふたり、ふたり。ふたり、きり。単語がぐるぐる巡り、思考が進まない。

 何か、言わなくては。口をぱくぱくと動かす。しかし、わたしが言葉を発する前に、扉の開く音が静寂を打ち破った。


「はあー、コピー機やっと直ったー。あ、春野先生、俺にもコーヒーください」


 印刷室から、湯ノ川先生が帰ってきたのだ。驚きのあまり、肩が大きく跳ねる。そういえばコピーがうまくいかない、とか言ってた。気がする。わたしは慌てて立ち上がり、コーヒーを淹れるために新しいカップを掴んだ。

 砂糖を加えていると、前触れなくネイガウス先生が席を離れた。背後にその影を感じ、ドクンと心臓が脈打つ。しかし、先生はそのまま立ち止まることなく、廊下へと姿を消した。ほっとすると同時に、罪悪感がうずく。結果的にだけど、お誘いを無視する形になってしまった。

 湯ノ川先生にコーヒーを渡し、わたしはどさりと椅子に腰をおろした。先生は眼鏡を曇らせながら、静かにコーヒーを飲み干している。ため息をつく。と、わたしは見慣れない付箋に気づいた。閉めそこねたままの、液晶画面の端にくっついている。

 手を伸ばし、パソコンから付箋をはがす。シンプルなデザインに、滑らかに走る文字。わたしは、その羅列に目を走らせ、すべてを理解すると、こっそりほほ笑んだ。



付箋にメールアドレス

( 「いい返事を、期待している。」 )
( …さあ、今夜はスキヤキだ! )





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アンケリク、先生と同僚のおはなしでした。講師夢主って発想がなかったので、とても新鮮で楽しかったです。最初はもっと先生がっつり誘ってたんですが、なんか教師だと犯罪すぎるのでやめました。笑


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