静かな室内に、サラサラとペンの滑る音だけが響く。

 理事長室の大きな机で、メフィストはペンを握る手を動かしていた。書類と睨み合う彼は、ソファに座るわたしのほうを全く見ようとしない。

 しばらく仕事に集中する彼を見つめていたが、ついに耐え切れなくなって立ち上がり、机まで駆け寄るように近づく。メフィストの座る椅子の横にしゃがみ、上目遣いで見上げた。


「…おや、どうしました」


 わたしに気付き、メフィストはちらりと視線を書類から外した。だけど手元は動かしたまま。休める気配はない。


「お仕事、おわんないの?」

「まだかかりますねえ…。寂しいですか?、華子」

「…少しね」


 拗ねた口調のわたしの頭を、メフィストは苦笑いしながら大きな手で撫でた。


「なるべく早く終わらせますから、待っていてください」

「…はあい」

「いい子です」


 メフィストの手が離れ、わたしは立ち上がりソファに横になる。山のようにあるカラフルなクッションに包み込まれ、寂しさを紛らわす。床に散らかった適当な雑誌を手にとり、ぱらぱらめくった。





 一時間くらい経っただろうか。

 うつぶせになり、もう数周目に入る雑誌から久々に顔を上げる。そこで、わたしは思わず目を見張った。

 メフィストがかくんと首を曲げ、睫毛を伏せている光景が飛び込んできたのだ。握られたペンはぴたりと止まり、動く気配がない。書類はきっと、みみずの這ったような波線だらけだろう。と、いうことは。


 寝て、る?


 あまりに珍しい光景に、もしや寝たふりだろうかと疑い様子を見る。しかし、書類はまだいくつか積み重なったままで、本当に寝ているのだろうとわかった。仕事を放棄して狸寝入りなんて、時間がもったいないだろうし。

 わたしは静かに雑誌を閉じ、忍び足でメフィストに近付いた。柔らかな絨毯に、指先が触れる。

 俯いた顔を覗き込むと、規則正しい呼吸と、長い睫毛。こんなに近づいているのに、気づいていないのだろうか。


「メフィストー…」


 試しに小声で呼んでみるが、返答は、すうすうと心地良さげな寝息だけ。

 そのまま居眠りをするメフィストの観察を続けていたが、ありのままの彼の寝顔を見ていると、急にわたしの中に不思議な感情が現れた。むくむくと沸き上がる気持ち。むずむずするような…。

 わたしはメフィストの長い横の髪をはらい、そっと眠る彼の頬に口付けた。

 唇から伝わる熱を味わって顔を離す。寝込みになにしてるんだろう、と少々後悔しながら瞼を開けると、ふたつの緑の光と目があった。

 ―――え?


「みぎゃあああぁああああっ!」

「ブングルっ!?」


 静かだった部屋に、わたしの絶叫とメフィストの断末魔が響き渡った。

 まさか本当に寝たふりしてたなんて…!最悪!

 動揺のあまり、わたしは思い切り彼の頬を殴ってしまっていた。


「い、痛…何をするんですか、華子!」

「こっちの台詞よ!寝たふりなんて…最低メフィスト!変態!」

「ち…、ちがいます。誤解ですよ!」


 わたしに殴られた頬を押さえながら、メフィストは涙目で訴えてきた。


「いつの間にか意識が遠のいてて…本当に寝てたんです!しかし、何やら華子の匂いがすると思って目を覚ましたら…」


 キスされて、殴られました。

 弁解を聞きながら、最初は訝しんでいたわたしだが、メフィストのあまりの必死さにとうとう溜め息をついた。どうやら嘘じゃないらしい。まあ確かに、あれだけ近づいたら起きても不思議じゃないよね。だとしたら、


「…殴ってごめん」

「それは良いですけど…。せっかくの華子からのキスだったのに…余韻に浸る間もなかった…」


 わたしの謝罪を聞いて、一度は機嫌を元に戻したらしいメフィスト。しかし、すぐに不服そうな顔をしてそっぽを向いた。

 向こうを向いた首に腕をまわして、わたしはもう1度、頬にキスをした。





おはようのキス

(お仕事、おつかれさま)




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かなり難産なおはなしでした。結局、オチは授業中に思い付いたという二重オチ。


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