【善次郎】

お里は結界の向こうで溜め息を吐いている善次郎に云った。

「番頭はん。お茶でも煎れまひょか」
「飲み水も只ではないんで私はええだす」
「出涸らしもあるけんど。腹下してええんやったら井戸水沸かしますよって」
「――」
「睨みつけとっても帳簿は動きまへん。今日は用事もないんやからゆっくりしたらええのに。商いを休んでまだ半月。こっからが正念場だすで」

善次郎は観念して立ち上がった。

「なんぞやることないと私は気が狂いそうや。お里はん、予定のない日はな。松吉と梅吉が交互にやっとる洗いもん、私のために置いとってくんなはれ」
「松吉はともかく梅吉は家事手伝いも整理整頓も好きでやっとるんよ。番頭はんが勘定から解放されるような手仕事ゆうたら――」
「力仕事以外なら何でもやりまっせ。最近腰が痛うて敵わんのや」

お里は頬に手を当て、暫く天井の梁を見つめていたがポンと手を叩いた。

「繕い物がありますわ!」
「……ちょいと松葉屋はん処にご機嫌伺いへ」
「逃がさへんで。そんな大層なもんやないんよ」

そうはいっても得意の範疇に入るものではない。

主が留守である以上、店番として帳場を離れるわけにもいかず。さりとて頭を使わず集中できることは限られていたため、善次郎もしぶしぶ承諾した。

松吉や梅吉が小間使いを終え帰ってきたころには、「痛だッ」「あ痛ッ」という叫び声こそ聞かれなかったが――番頭の縫い上げた奉公人全員分の褌は、ところどころ赤い血に染まっていた。

笑いを堪えている一同と違い、遅れて帰った和助はけらけらと声を上げた。

「見てみ。私のは赤褌に染め上げたほうが良さそうやな!」
「……他人事と思って。旦那さん」

お里に差し出した傷だらけの指は、さらしをくるくる巻かれるとよりいっそう悲惨さを増した。

「――大怪我をした風に見えます。番頭はん」

こちらを向いた善次郎の表情に、松吉は肩を狭めた。

「梅吉やったらこうはならん」
「松吉でもなりまへんわなあ」

四方から責められ、善次郎は肩を落とした。しかし番頭の頑張りを見ていたお里だけは違った。

「御苦労さんでした。これ、私から。今日の日給」

反対側を見ながらついと出されたお里の片掌を見つめ、善次郎はキョトンとした。懐紙に包まれている薄いものは、厚みからしてとても銭には見えない。

飴か何かとあたりをつけた番頭が両手でうやうやしく受けとると、お里は仕上がった繕い物を持って引き上げた。

「なんやろなんやろ」
「駄賃か?」
「――さあ」

灯りに透かしても拉致があかず、善次郎はその場で中身を開けた。畳にヒラリと落ちそうになったそれを、脇に座っていた松吉が掴み番頭に手渡す。

和紙に挟んで糊づけされ、丁寧に作られた押花の栞一枚。

端には番頭の名前が薄墨でひっそりと上書きされていた。

「お里はん……」
「お里は相変わらず字ィ綺麗やなあ。近所の子供らに教えられるわ」

それ以来、井川屋の帳簿には、栞が挟まるようになった。






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