【井川屋】
松吉が故郷美濃の苗村を久方ぶりに訪れたのは、還暦を過ぎた頃。
つい先日暖簾分けしたばかりの井川屋の番頭がついてくるとは思いもよらず、年寄り二人でよろけながらの長旅となった。
菓子職人として身を立てたいと言い出した息子のために、新しく小豆を仕入れる先を探しにきたのだ。
松吉は溜め息を吐いた。三十近い長男が、店を継いでくれるとばかり思っていたからである。
「こないなことになるんやったら、やっぱりお前はんに井川屋を任せて早う隠居するんやった」
道中呟くと、気の優しい番頭は心配そうに松吉を見つめた。
「旦那さんがそう云ってくだはるんは嬉しいだすけんど、私は結局、嫁も貰てませんので」
「次男坊の和助は十年前、半兵衛はん処に養子に貰われてしもたし」
「あれも坊っちゃんご本人の決断だしたな……」
「うちは誰に似たんかそんなんばっかりや」
旦那さんとご寮さんに似はったんだす、という言葉を、番頭は飲み込んだ。
道行く花に目をやりながら、休憩を挟んでまた歩きだした。
「お広は梅吉の処に嫁に出したから、あとは三男坊の数馬か善次郎か。まだまだかかるな」
「数馬の坊っちゃんは松葉屋はんのご寮さんにえらい気にいられてますからなあ」
松吉はうなずいた。松葉屋の嬢さんは三男より年上だが、兼ねてから二人とも憎からず思っているようである。
嫁に貰えるならそれに越したことはないが、簡単にはいかないだろう。
「あっちも跡継ぎで揉めとるみたいや。あかんあかん。大店の松葉屋はん処じゃ、婿にやるとしてもまず丁稚から」
「そりゃ無謀だす。それに末の坊っちゃんは……」
善次郎は先の大番頭が亡くなった年に生まれたので、二十になったばかりである。
恥かきっ子もいいところだが、遅くにできた子供だけあって可愛いのは確かだった。
善次郎が井川屋を継いでくれる想像に、松吉の頬は自然と弛んだが――しばらく歩いてぽつりと云った。
「大番頭はんはお父はんより十年も早う逝ってもうて……私も梅吉も辛うて辛うて。おかげで半年後に産まれたあっちの倅も善次郎や」
「善次郎の安売りやて坊っちゃんら、よう喧嘩してはりましたな」
苗村はすぐそこだったが、松吉は足を止めた。
周囲の人間が歩いてきた道のりを考えると、思うようにならないことが更に人生を楽しくするのだと思える。
松吉は来た道を振り返り、誰にともなくうなずいて、また前を向いた。
「――お里はんは百までいくやろな」
「へえ。私らも気合いいれませんと」
松吉の顔が綻んだのを見て、番頭も微笑みを浮かべた。