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2024/07/28 

 浮かんでは消えていく選択肢の前で、立ち竦んでいる時間は永遠に思えた。空間の中でベレトは何かしらの不合理が起きたのだな、と記憶をさらって眉根を寄せた。またもや誰かを選ばなければならず、残りの誰かをこの手で討ち払うことになるのだろう。およそ幾度か数えきれないほどのやり直しを経た気がするが、あいにくひとつも覚えていなかった。
「此処にいたんですね」
 星の明かりさえない真っ暗な空間で、見覚えのない痩身が立っている。仮面をつけているため、表情はわからない。君は……と口にしかけると、凪いだ風が空間を切った。明るさに眩暈がする。教え子たちの顔が浮かんでは消える。草原に横たわった自分の体を起こすと、何か長すぎる夢を見ていたような心持ちで、ベレトは顔を上げた。
 僕はマルス、忘れないでとその人は言って、虚空に霧となって消えた。



「先生」金の髪が視線を遮る。「先生! 急にどうしたんだ……」
「――ああ」
 ディミトリが本を片手に、自分の腕を掴んでいる。何かしていたか、と聞くと不思議そうに「いや。立ったままで、遠くを見ているから。俺はずっと声をかけていただけだ」
「そうか。だったらおそらく、寝ていたんだな」
「……おかしなことを言う。たしかに先生は、従軍しても歩きながら寝ていることはあったが。今は必要ないだろう」
「そうでもない。紋章士の間に浮かんでいるときも、夢は見るだろう。あれと同じだよ」
 試練の間がよく見える崖の淵に立っていた。城を振り返ると静かすぎる風が音もなく通りすぎるが、実体のない今では影響を受けることがない。やはりあれは夢だったか……と、はっきり名乗った彼の姿を思い出そうとするが、記憶の底には誰もいなかった。
「そうか。問題があれば俺か、クロードでもいい。声をかけてくれれば、対応しよう」
「うん。必ず――」
 再度遠くを見やると、竜の姿をしたチキがパンドロとアンバーを乗せ、くるくると周回しているのが見えた。(あれの監視をヴァンドレに頼まれていたはずだ)と思った瞬間、反転して一人が落ちる。ディミトリが焦ったように声を上げたが、チキの大きすぎる歯のひとつがパンドロのローブの端を掬い、難を逃れた。
「とんでもない遊びだ。止めなくていいのか?」
「小一時間ああしているけど、ここから落ちてもゲートに戻れるよう対策はしているらしい。リュールと繋がっているから、ソラネルの中には戻れるだろう」
「いや、そういうことではなくてだな……」
「相変わらず心配性だ。ディミトリは」ベレトは気心の知れる相手にだけ見せる、柔らかな表情を一瞬だけ浮かべた。「もうしばらく、私が見張っているから。後で代わってくれないか」
「俺が見張って彼らが落ちても、できることは少ないように思うが。先生、疲れているなら今すぐ休んだほうがいい。このところ、イルシオンに頻繁に出入りをするせいか、一人で倒す異形兵の数が尋常じゃないだろう。エーデルガルトも心配していた」
「ひとりじゃないさ。いつだって」
「――」
「傭兵時代は気づけば一人が当たり前だった。仲間と呼べる相手はほとんどいなかったし、教師になってからは」いいさして、振り返る記憶が遠すぎることに気づく。「ディミトリ。紋章士として顕現されてからどれくらい経つか、君は思い出せるか」
「さあ。俺たち三人は比較的新しい存在だと聞いているが……百年くらいか? 精神体の時間の感覚はかなり早いが、最初に喚び出された国の発展を鑑みるに、そのくらいだと思う」
「それは比較的ではなくかなり新しい部類に入るな。私はおそらく二千年くらいとあたりをつけている。もちろん『比較的』新しい存在だ」
「……」
「総合して計算したことはないが、指輪の中で眠りについている間に、三つほど国がなくなっていたこともあるんだ」
「その間、指輪は誰の手に?」
「どこかの溶岩に数十年落ちていたのを、引き上げてくれた紋章士がいてね」
「溶岩……熔けないにしても考えたくない状況だな。女神は何もしてくれないのか。誰に拾われたんだ」
「それが、覚えていないんだ。聞いてまわったが誰も記憶にないらしい。邪竜に操られているときには皆も記憶が曖昧だから、確かなことは言えないが」
 ベレト自身は二度ほど喪った世界があると認識しており、記憶の書き直しが行われている自覚があった。マルスを始めとする紋章士の中で、別世界に置かれた同じ存在と出会うことはほとんどない。神竜の力がないと往き来さえできないがゆえに、壊れた側の世界を思い出すこと自体があまりできないというのもある。
「ディミトリは、異世界の側で過ごした記憶も持っているんだろう」
「――あちらで同じ時間を過ごした人間が、こちらでは別人だからな。忘れるように努めているよ」端整な顔が苦悩に歪んだが、一瞬のことだった。「ひとつの側面だけ持つ人間なんていないだろう? 俺だって、いつ豹変するか」
「……」
「先生。そこは即座に否定してくれるんじゃないのか」
 あきれたように手を振って、「何かあったら、すぐ呼んでくれ」と早めの交代を促される。ベレトは教え子の気遣いに感謝して、その場を離れた。



 紋章士の間に姿を現すと、マルスが虚空を見つめて立っている。ベレトの視線に気づいて振り返ると、いつもの笑顔に戻った。「昼間から珍しいね。休みに来たのかい?」
「ああ」ベレトは夢の中でマルスと名乗った青年を思い出そうとしたが、目の前の紋章士にその面影はなかった。「マルス。おかしなことを聞くが――弟はいるか」
「兄弟は姉が一人だけだよ」
 そうか、と顎に手をやり考え込む姿にマルスは首を傾げた。ベレトは夢の話をかいつまんで話したが、ひとつだけ眠りに落ちている指輪が目にとまる。マルスが視線に気づいて、「ルキナは僕そっくりの扮装で現れたことがある。体格以外は見分けがつかないほど似ているんだ」と言った。
「私はソラネルに来るまで、ルキナに逢ったことはないはずだ」
「僕たちの記憶は一定ではないからね」マルスが静かにいった。「記憶を探っても出てこない空白の時間があるはずだ。竜の時水晶を使ったことがある君にはわかるだろう」
「今度は使われる側だからな。確かに……それでも腑に落ちない」
 ベレトは再度口を開きかけたが、浮かんでいた指輪が光を抑えてゆっくりと落ちていくのを見定めて黙った。ルキナは姿を現すと、大きく伸びをした。「はあぁぁぁ……よく寝た!」
「おはよう、ルキナ」
 バッと振り返った長い髪が、優しい声と無言のまま頷く青年二人を見て、わかりやすく赤面した。本当に反応から剣の太刀筋まで、そっくりな父娘だな――とふたりの紋章士は同時に思った。
「ま。マルス様、ベレトさん。おはようございます。すみません、誰もいないと思って……」
「朝、少し声をかけたんだけど。全然反応がなかったから。昨夜は夜更かしでもしていたの」
「いえ。早めに寝ついたはずなんですが……その」ルキナは思案するように目線を動かし、思い出したように拳を叩いた。「そうです。お父様が夜更かしをなさってて、声で起きてしまいました!」
「……誰か一緒にいた?」
 声の調子を変えたマルスにベレトは疑問の目を向けたが、黙っていてくれという目配せに視線をはずす。ルキナは全然気づかない様子で辺りを見回した。
「誰かとお話なさっているのは雰囲気でわかりましたが、私は連続出陣の後で疲れていたので……ごめんなさい、覚えていません」
「そう、ならよかった。忘れてくれるとありがたいな」マルスは何がよかったのか説明することなく、「ベレト。先ほどの件、覚えておくよ」と言ったきり扉をすり抜けて出ていった。
「あ、あの。大事なことだったのでしょうか?」戸惑ったルキナが助けを求めるようにベレトをうかがう。
「さあ。私は昨晩、オルテンシアが指輪をはずし忘れたから、紋章士の間には戻っていないんだ」
「ソルムの砂嵐のせいで出撃が前後しましたからね。つけっぱなしで寝てしまった人も多かったと聞いています」紋章士の間にいなくとも別に問題はないが、回復力は段違いである。「セネリオさんとルフレさんのチェスの勝敗がどうなったか、まだ聞いていないのですが」
「引き分けて次に持ち越したそうだよ」
「またですか! すごいですね、紋章士セネリオ……侮れません」ルキナは目をきらきらとさせて、両手の拳を握った。「私はルフレさんに、一度も勝ったことがないんです。紋章士になる前も、その後も。お父様になら絶対負けないのに!」
「私はあの手のゲームで父に勝ったことがない」ベレトは頬を緩めた。「挑戦できる機会に恵まれたルキナがうらやましいな。きっとルフレにもすぐに追いつくことだろう」
「……」ルキナはぽかんとしてベレトを見つめた。
「どうかしたか」
「す、すみません。ベレトさんにご両親がいるところが想像できなくて」
「――木の股から生まれてきたわけじゃない。なぜ皆、そういう反応をするのだろう」ベレトは表情のほとんど変わらない自分の顔を撫でつけた。「取っつきやすい見かけじゃないことは知っているんだ。そんなに怖いかな」
「怖い?」ルキナは頭を激しく振った。「それは違います。あの、たぶんそうじゃないんです」
 整い過ぎている中性的な顔が、生きている彫像のように動く。ルキナは正直に言うべきか口を濁すか迷ったが、「お綺麗だから……」とだけ言った。
「ありがとう」
「あ、気づいてはいらっしゃるんですね?」
「母親にそっくりらしいんだ。私を産んですぐ亡くなったが」
「――」
「母は人好きするタイプだったらしいから、やはりそれでも私だけ態度がおかしいのだろう」ベレトは口元に指の節を当て、真っ暗な中でそこだけ外の光が射し込む高い位置にある小窓を眺めた。「ルキナ、ひとつ聞きたいことがあるんだ」
「え? ええ。私に答えられることなら、なんでも聞いてください。ベレトさんのお役に立てるかわかりませんが……」
「私は君のことを、はじめて逢ったときから知っている気がする。もし覚えていることがあるなら、教えてほしい」
「……」
「ルキナ?」
「は」声もなく立ちすくんでいた己を恥じて、ルキナはぶんぶんと更に激しく首を振った。「え、あの。申し訳ありません。思わぬ内容だったので思考が――ベレトさんのような人が記憶に残らないはずはないと思うのですが。それは、いつの話でしょう?」
 紋章士となる前、という声にルキナは少し身を震わせた。蓋をしている遠い過去の記憶の扉には、鍵がかかっている。
「……ベレトさんは、自分がいつどのようにして指輪に囚われることになったか、覚えていらっしゃいますか」
「いいや。果てしがない存在に比べれば短い時間だが、気づいたらこの状態だった。肉体を伴って生きているときも似たようなことがあって、気づけば現実の時間は五年くらい過ぎ去っていたから、すぐ戻るだろうと達観していた気がする」
「――」
「君は時間を遡って父上を救いにいったのだろう。私とは逆の存在だ。彼は誰時に、どこかですれ違ったのかもしれないな」
「え……」
「斜陽」小窓に指を翳す。「太陽が陰るときに、月が昇るだろう。黄昏の時間が、時のよすがを狂わせるんだ。その空間にあるときだけは、同じ存在であっても会話が成り立つし、体感として心も通わせることができる。しかし絶対に交わることはない。相手をひとりの人間として知覚した時点で、彼らはもはや同じ存在ではないからだ」
「どういう、」
「私には血の繋がった兄弟はいないが、姉と呼ぶ人がいる。彼女はそんな時間にだけ、校内のある場所に姿を現す存在だった」ベレトは指をおろして、戸惑うルキナを安心させるように微笑んだ。「思えばルフレやカムイ、リュールも同じことを言っていた。私はそれが姉ではないことを知っている。彼女はおそらく、私自身なんだ。異世界のリュールのように言葉を交わすようなことはできなかったが、常にそこにいることはわかっていた。事象が変わってからは二度と現れることのなかった、私の相棒のような女性に――そう説明されたよ」
「相棒、ですか」ルキナは痛んだ胸をきゅっと握りしめて、首を傾げた。理由のわからない心の底に、何か知らない感情が眠っている。「ベレトさんにも、そのような方が……その方は、恋人のような存在でしたか?」
「いや。どちらかといえば、そちらも姉のような、妹のような、母のような存在だった」ベレトはルキナの様子にはまったく気づかず、微かに見える空を仰いでいた顔を戻して、静かに告げた。「正直に言えばいい仲になりたかったのだが。なぜか選択肢に現れてこないんだ。そのうえ私とひとつになりたいと言う」
「……はい?」
「ああ、すまない。セクシャルな話ではなくて、言葉通りの意味なんだ――そしていつの間にか髪の色が彼女のものに変わって、五年経ってた。一緒になったら二度と離れないような口ぶりだったのに、紋章士になった途端に髪も元通りだ」
「……意外と、気が多い方なんですね。知りませんでした」
 耳まで赤くしたままうつむいたルキナの様子に気づいて、ベレトは己の失態に気がついた。「すまない。これで私の話はすべてだ。引き止めて悪かった」
「いえ――何も思い出せなくて、すみません」
 ベレトが自分の指輪の席に手を翳すと、誰も身につけていなかった装飾品が空中で煌めいた。黒衣の紋章士はそのまま目を瞑り、姿を消して辺りには静寂だけが広がった。



 ルキナは差し込む胸の痛みに手を寄せ、紋章士の間をそのまま後にした。




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