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2024/06/21 |
ルフレの叫び声に飛び起きるのは、数えきれないほど経験してきた。クロムは腕輪の中で部屋をひとつにして、その狂乱に堪えることを提案した。しかしその日の声は困ったことに、現実の部屋で行われた。精神体である紋章士の声は思念の強さでかなり遠くまで届いてしまい、人間は扉を開けて入ってはこれないが、何名かの紋章士はその状態を見ることになってしまった。 「ルフレ――ルフレ!」 「……ッ! はぁ……! やめろ、僕に触るな!」 「ルフレ、それは夢だ。しっかりしろ」 頭を抱えたままのルフレに、弾き飛ばされる。直前でヘクトルの大きな体に護られたが、「おい、どうした」と声をかけた彼ごと七部屋ほど舞った。長く実像を保とうとしたせいで姿を消せることも忘れ、抱き合ったまま衝撃ですり抜けた壁を互いに呆然と見つめる。「きゃあ!」と着替えの最中だったゴルドマリーが身を守った。 「いかん。ルフレのやつ、寝ぼけている」 「寝ぼけ……寝ぼけてるってレベルじゃないだろう。母屋まで吹き飛ばされたぞ?」 「いや。腕輪の中ではよくあるんだ」クロムは返事を聞かずに一瞬で姿を消し、部屋に戻った。「ルフレ! 目を覚ませ!」 中には騒動を察したマルスとリンが立っていたが、ルフレはその姿を見てますます後ずさった。「頼む、こないでくれ。僕は――」 マルスは片手を上げて、ひとつうなずいた。 「ルフレ。何もしない。クロムだけで大丈夫だとわかったら、部屋を出るから」 「魔道書はしまって。私もマルスも魔法は得意じゃないわ」 汗だくになって目を泳がせる半身の、一瞬だけ紅く光った瞳の色に気づいて、クロムはルフレを引き寄せた。大きな胸に軽くおさまるほど華奢な肉体が、抵抗するのを抱き締める。ルフレが息を整えながらいった。 「すまない……てっきり、腕輪の中で眠ったつもりで……」 「顕現され続けていると無意識で肉体のあるときと同じ感覚を共有するから、無理もないよ」優しいマルスの声は、そろりと部屋を覗く数名の紋章士を手で遮って続けた。「クロムがいてくれて助かった。ありがとう」 「いや。俺は俺で、少し思うところがあってな」体を離して、浮き足だっている精神体を床に落ち着かせる。「すまないが、しばらく二人きりにしてくれ。説明は、後で必ず」 「わかったわ」 扉の外で様子を伺っていたリュールたちの声も遠ざかると、部屋の真ん中にしゃがみこんだルフレの腕を取った。 「とりあえず、椅子に……」 「本当にごめん。いつものやつだ」 「――詳しく聞かない方がいいか?」 そうだね、と言ったきり、顔を上げようとしない。クロムが口を開きかけるのを制し、ルフレは現実の椅子に座った。肉体はないのにそこにあるというだけで、腰を落ち着けると息が整う。生きている時間とほとんど同じ作用で生理的な手段が取れるため、自分のマントで汗を拭ってやるとルフレは少し笑った。 「ずっとそのままの格好でいたのかい」 「ああ。シグルドよりはマシだが、俺も服装を変えるのは苦手でな」 「脱ぎ散らかして置いておけばいいじゃないか。タンスもあるし」 「認識できないといつの間にか消えてるだろう。ときどき色がチェンジしていたり、めちゃくちゃなんだ。幸いなことにお前ほど記憶力もよくない」 お前ほどに、と繰り返す。詳しく聞いたことのない悪夢の内容は、さまざまに断片的な記憶を辿って流れるように精神の下水に流してきた。自分の中にも同じような出来事はあるが、ルフレのそれは性質が明らかに違う。クロムは頃合いを見定めていった。 「やっぱり、部屋は同じにしといたほうがいいんじゃないか。向こうの世界と違って、紋章士同士の距離も近い。今回みたいなこともあるだろう」 「――駄目だ」 「ルフレ」 「シグルドと二度目はあったかい?」 二度目? と聞き返して、うっと息をつめる。恥ずかしさで熱が出そうだった。「あ、ああ。その。なんだ……」 「叩き起こしたと聞いてるが、シグルドのとんでもない叫び声でみんな目を醒ましたというじゃないか。紋章士の間はよほどのことがない限り外界とは閉ざされているのに、遠くにいた僕にも聴こえたよ。どうやって起こしたの?」 「今は俺の話じゃ――」 「同じ起こしかたができそうなら、僕にもやってほしいんだ」 クロムは顔を覆って、それは無理だ! と真っ赤になって叫んだ。「すまん。聞かないでくれ。ボネの悪影響で。まさかできるとは思わなくて」 「……どういう意味だい」 「複製技術はお前にどう説明されても俺には無理だったが、魔道の力で現実のものを動かすことができるなら、触れられなくても多少は可能かもしれないと……」 「話が見えないな。何をしたの?」 空中に浮きかけていたシグルドの指輪を口に含んだ、と。それを白状されても、ルフレは首を傾げるしかなかった。 「それは――さすがに何も感じないだろ。だいたい、ボネの悪影響ってなんだ」 「いや。俺たちの腕輪がどんな味がするのか、舐めさせてくれと顔を合わせるたび言われるもんでな。思いついてしまった」 「……ボネもボネだけと、シグルドもシグルドだな」ルフレは微苦笑した。「おそらく眠りが浅かったから、君のために起きようとしていたんだろう。強行に出られて驚くのも無理はない」 「あんなに叫ぶとは思わなかった。ルフレ、二度目ってのは、その後のことだと思うが」クロムは赤らんだ顔を背けて、ベッドに腰をおろした。「――確かに何もしなかった。その。皆の意識が俺たちに向いてる状況下で、カフェテラスで話をつけたから……聞こえないことはわかっていても、続きを望むには遅すぎる時間帯だったし」 「まあわかるよ。ソラネルもそこまで広くはないし、紋章士に限らずプライバシーが保てるわけじゃない」 「ゴルドマリーの下着姿を見たことを思い出した。謝ってきていいか?」 落ち着きを取り戻したルフレがうなずくのを見届けて、ゴルドマリーの部屋に意識ごと飛ぶ。ノックをする前に扉が開いて、「あら。ヘクトルさんもいらしてくださいました。可愛い下着で紋章士のお二人を刺激してしまい、すみません……」と身をくねらせる。返事もそこそこに謝ると、時間をおかずして踵を返した。部屋の中で今度はルフレが着替えをしており、「す、すまん」と謝る。 「いや。この不便な精神体の唯一の利点は、思い描けるものなら大抵のものは存在してくれることだね。武器や防具は固有のものしか身につけられないが、現実のものなら貸し借りも可能だし」 何事もなかったかのように装うルフレに、クロムは声をかけるか迷った。大丈夫だ、とルフレは外套を纏いながらいった。 「言いたくないことまで無理やり聞き出そうとして悪かった。腕輪の部屋は予定通り分けるつもりでいるから」 「ルフレ」 「僕だって一人になりたいときもあるんだよ。ただ現実の側で部屋を分けるとなると、訪ねてくる人も負担だろう。悪夢のほうはいつものことだから。気にしないでくれ」 「――それは、本当に単なる夢なのか?」 自分の見る夢は相棒に話せないのに、そう尋ねてしまう。普段通りの姿に戻ったルフレは振り返り、単なる夢にしなければ。と確かにそういった。 「セネリオやシグルドは紋章士の間で休んでいるのかな」 「ああ。聞かれなくてよかったが……皆、心配そうだった。話してしまうだろう」 マルスと話をつけなくては、と顎をおさえて思案している。クロムは眉根を寄せたが、ルフレはそのまま首を振った。 「いや、まだやめておこう。擦り合わせた途端に血みどろの罵りあいに発展しかねない」 「……本当に、どんな悪夢なんだ?」 「自分でもわからなくなりそうなんだ。クロム、僕は今夜は腕輪で休むから。この部屋を使っていいよ」 「――」 「ああ、現実の部屋も分けたほうがいいのかな。どっちでもいいんだ。級長三人に話を聞いたらさ、腕輪の中では学園にいたときのように、互いの部屋は遠く離してあるっていうんだ。どんな構造になってるのか教えてもらいたいよ」 「――ルフレ」 部屋を出ようとした腕を取って、もう一度向き合うと自然と体は寄り添った。肉体の渇望や精神の窮状とは比較にならないほど、互いが自分自身であると思える。その苦しみを少しでも和らげられるならと、額を寄せたこともあった。しかしなぜかそれ以上のことにはならなかった。どこかの世界の自分たちが、その一線を越えて喪った日常ごと記憶を封じたからかもしれない。 「皇族としての立場上、自分からは何も求めようとしなかった君が。降りしきる矢も盾もたまらず手にしたいと願っている相手だ。シグルドを離すんじゃないよ」 「ああ。だが俺は……セネリオについては、ちょっと反対してるんだ」 「『アイクに対するセネリオの気持ちか?』と君が聞いた日があったけれど」ルフレは言葉を遮って顔をあげた。「――あれは違う。僕とマルスについての夢だった。これ以上はまだ話せない」 「すまん……ルフレが何を言ってたのか、もう忘れてしまった。リュールの部屋で整理をつけたら、全部のことが頭から飛んでしまって。紋章士になったからといって、責任ある立場から逃れたと錯覚してはいかんな」 どこまでも真面目に返そうとする実直な相手に、ルフレは頬を緩めていった。 「君の場合はすべての立場について、少し忘れるくらいでちょうどいいよ」 |