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2024/06/14 

 抱き締めてほしい、と。口にするのは堪えられなかった。何も言わずにそうされてからも、なおさら拒絶が怖い。相手は誰なんだ、という一言が聞けない。聞いてどうする。
「どうしたんだ。君らしくないぞ」指輪から叩き起こされたシグルドは、カフェテラスの端にある机の前で戸惑っていた。「気が変わったのか? 君に限ってまさかとは思うが……私を弄んで楽しんでいるのか」
「俺の何も知らないだろう……」
「そう、涙ぐまれると誘いに乗ってしまいそうになるよ。何を怖がっている?」
「あんたに、嫌われることを」
 頬にかかる指先の優しさに、今さら恥ずかしさが勝って顔を逸らした。耳元に寄せてくる相手の髪が、自分の髪と知らずに擦り合う。躰を寄せると一歩下がるので、思わず呻いて両の手で襟ぐりを掴んだ。
「今夜は駄目だ。わかってくれ。君に振られてからは結構な打撃でミスを連発している……こんなに揺れ動くなんて、自分でも信じられないほどなんだ。一度でこれだと、二度は厳しい。君のほうは戯れのつもりだったのかもしれないが――」
「……あんたが欲しい」
「クロム。無理をしなくていいんだ。私に合わせなくていい。君に強制する気は」
「本当に、欲しいんだ。嘘はついてない。あんたしか見えてない自分に気づいた」クロムは喉を詰めた。「シグルド。ずっと気にしていたことが、遠くにいってしまうほどなんだ。ルフレやルキナを傷つけてまで、望んだりしないと思っていたことが。他のすべてを捨ててもいい、と――気づいたら、お前のことばかり考えて、一番に想っている」
 明かりも落ちて水の音だけが遠くに聴こえるカフェテラスの静けさが、その身に降りて肩を撫でる優しい手つきと相まって、クロムの心をざわつかせた。
「捨てなくてもいい。私は喜ばない」
「どうしたらあんたに振り向いてもらえるんだ? 幾晩も、俺のことだけ考えて一緒にいてくれ。俺は……」
「いつも考えてきたから関係を作ろうと努力したんだ。ただ、今回は時間がほしい。クロム、もう一度冷静に」
 乱暴に服をわし掴んでも、消えたりはしない。ほんの少しではあるが体格差で抱き締めると口づけはたやすかった。閉じられたままの唇を押し開く勇気はなく、もてあました肉体をぶつけてしまう。片腕が肩を掴んで押しやろうとするのに抵抗して、より強く頭に腕をかけた。上向いた唇が開き、薄目を開けた端正な顔が眉を軽く寄せる。
 下手なやり方で舌を絡めると、こうだという風に積極性を増した手がクロムの腕を下ろさせながら、長々と迷いこむ。小さく声を上げると追いつめられていて、求めたものとは違ったが純粋な快楽で余分な力は抜けた。あ、と洩らした声も掬われて全身が痺れる。嘘偽りがないと証明する必要を感じなかった。シグルド自身も頭を直撃する刺激に姿を消しそうになって、接吻ひとつで実体を維持できない無様な姿を晒すことを避けるため、躰ごとすべてを引き剥がした。
「クロム」
「俺の。ことだけ」
「何かあったのかと聞いている」
「誰なんだ……」疑問を投げかけてくる目に、問いかける。「紋章士の、誰なんだ。俺以外のやつが、あんたと抱き合っているのを想像したら」
 そういうことか、とシグルドは目を細めた。「――誰に聞いた?」
「誰にも。ただ、そうなんじゃないかと。俺が思っただけだ」
 そうか、と息を吐く横顔に、なぜほっとするんだと問い詰めたくなる。シグルドはクロムの顔を両手で真っ向から受け止めて、あのな、と普段はあまりしない素に戻ったような声でいった。
「まず、相手は男だ。それはいいか?」
「理解した。覚悟はできている」
「肉体関係があったが、ずいぶん過去の話だ。両者に通じる欲求の解消に役立つから、結んだ契約だった。相手からの提案だ」
「……他人事のように言うんだな」
「どのように言っても君を傷つけるから、話してこなかった。相手はマルスだ」
 そうじゃないかと思ってた――と。逸らそうとする顔を捕らえられ、クロムはその手を握った。
「私が受け入れた」
「マルスの気持ちをか……彼はどのようにして、あんたに」
「そうじゃない。肉体的に」シグルドは口を濁して、ああ、もう! と焦れた声をあげた。「つまりだな、逆だ。それが君の慰めになるかはわからないが」
「意味が――よくわからん。好きあっていたんだろう」
「それは絶対に違うといえる。正直にいえば私は未練があったが、マルスは違う。彼はそちらの方面の解消に関しては妙に理性的で、厄介なんだ」
「聞きたくない。すまん、自分から聞いておいて……あんたの口から、俺以外の名前を……」クロムは言いかけて、急にはたとした。「肉体的? 肉体的にってどういう意味だ?」
「……何度も言わせるな。私に対してそうしてくれるような人間は、少年期を除いて彼以外に存在しなかった。いま思えば馬鹿な話だ。マルスはリュールの代わりを必要としていた」
「――」
「彼がルミエルと私の関係を疑わなかったのはそれが理由だ。彼はそちらの方面では天才的な才能があって、自分でも驚いていたが。私のやり方とは根本から違う」
「マルスが……シグルド、何を言っているんだ?」
「聞きたいと言うから答えている。期間はそう長くはなかった。ルミエルが私たちの関係に気づいて、改めて私のことを真剣に考えてくれたのも理由かもしれない。マルスは戯れに終止符を打ち、私に謝ったきり五百年ほど引きこもるといって眠ってしまったんだ」
「……」
 怒りもどこかにいってしまうほどの話だった。想像ができないことでは、嫉妬もできないのだなとクロムはひとつ学んだ。
「あんたのほうは、どれくらいで未練を断ちきったんだ? その、ルミエルが亡くなってからも――」
「リュールが目覚めて以降は、まったくその限りではない。これ以上は勘弁してくれ。君の思っている意味ではないが、マルスも私にとって……大事な友人なんだ。そこを乗り越えてしまったことをお互いに後悔したから、その話には触れない約束をした。時間をくれれば、この話をせずに対処する方向に持っていくこともできたが」
「俺はいやだ。聞きたかったし、聞いておいてよかったと思う。俺は、あんたに対して本当にどうしようもない気持ちを抱えているんだ」
「ああ……こんな風に求められたことは初めてだ。君を傷つけたくないと思っていたが、それは偽りだな。私も、君に嫌われたくなかった」
「あんたを愛している。ただ、見返りも何もいらないといえるほどのものではない」
「それが普通だ。見返りなしで傍にいられればというのは、恋とはまた違う」シグルドはクロムが思わぬ方向にその話を続けた。「――セネリオが眠る前にそれだけ告げていったんだ」
「アイクのためなら世界中を敵にまわしたって構わないと思っているのにか。あいつ……ルフレにはそうじゃないだろう」
「自分のために世界中すべてを敵にまわしてくれとは思うそうだ。恋愛初心者の要求はかなり強欲だぞ」
 クロムはそれなら、と自分も冷徹な魔道士以上に強欲になることを選んだ。
「――俺のために、全部を敵にまわしてくれ。マルスも、ルミエルも、あんたの大事な奥さんが敵として現れても。最初の一瞬でいい。俺を選んでくれたら、すべて水に流して身を引くから。それでいいな」
「全然よくないぞ。何を言っているんだ……本当に、自分の気持ちさえわかっていなかったんだな」シグルドは黙って抱かれていたが、身を離してあきれたように微笑んだ。「過去は過去だ。君と生きたい――それでいいか。クロム」



 返事を呑み込むように言葉は消え去り、胸を押し潰す想いを抱えてうなずく。後には穏やかな時間だけで、二度と離すまいと決めた相手の腕がそこにあるだけだった。




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