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2024/06/14 

 浮かんでは消えていく選択肢の前で、立ち竦んでいる時間は永遠に思えた。クロムは意を決して扉を右手で叩いたが、当たり前のように拳は重厚な扉をすり抜けてしまう。そうだった、音は頭で鳴らすものだった。普段なら考えもせずできることに、これほどまでに時間がかかる。唇をぐっと噛み締めて「運命を、変える」といつもの調子で口ずさむと、「なんの運命を?」と後ろからの声で勢いよく振り返った。
「――シグルド」
「君から訪ねてくれてよかった。ルフレの邪魔はしたくないものでね」気にもとめずに手招きをしながら、すり抜けたりはせず律儀に扉を開ける。「どうぞ。入って」
「い、いや! その。か、借りていた武具を返しにきただけだ」
「それは君にやるから」シグルドは困ったように首を傾げた。「言っとくが、お茶は出せないぞ。かなり試したんだが、お手上げだった。ほとんど唯一、自分でできる家事だったのに」
「紅茶を淹れるのは家事のうちに入らん……」
「自警団の団長と違って、身の回りの世話に関しては甘やかされて育っているからね。ほら、扉も重くなってきた」
「腕は使ってないだろう」諦めてそっと部屋を覗くと、想像した以上に散らかっている部屋の様子に「これでよく俺を招いたな」とあきれてしまう。
「まあ、精神体としての持ち物だけはこれで済むからな」パンッと叩いた両手の音と共に、簡易な家具以外のすべてが消え去った。「今朝は珍しくリュールを起こす者が誰もいなかったろう。双子が私のとこへ来て起こしてくれと頼むから、片づける暇がなかった」
「現実の部屋で寝ていたのか」
「たまにどっちが現実か忘れることさえある。皆どうやって整理をつけているんだろうな」
「……そこまで無精なのはシグルドだけだ」
 君が世話してくれるという約束だった、と耳元を掠めた声を手で遮る。熱っぽい眼差しを間近で受けると、声も自然と上ずった。「やめろ。いや、やめてほしい。頼むから」
「――わかった。君が嫌がることはしない。武具はそこに置いてくれ。後で手入れの仕方を思い出す」
「手入れの必要はないだろう?」
「壊れたりしないのは確かだが、手入れをすると念のようなものが違う気がしてこないか」
「こまめだな……そういえばアルフレッドも道具の手入れはまめだ」
 話を逸らそうと努力をしていると、少しずつ落ち着きが戻ってくるのを感じた。言わなければと決めてきたことを心の中で繰り返す。妙な速さで高鳴る胸とは裏腹に、冷えた言葉がクロムの口からこぼれた。
「すまない――俺は。やっぱり、シグルド」
「つき合い始める前から、断られる気がしていた」シグルドはゆっくりとした動作で椅子に腰かけると、いつもの様子となんらかわりなく落ち着いた表情でそれをいった。「無理をさせたなら悪かった。気持ちが通じたと錯覚した時間は、勘違いだったと君がいうなら。はじめから何も無かったことにしよう」
「……!」
「大丈夫だ。時間はかかるだろうが」
「違う。シグルド、俺は」
 何が違うんだ? と声は限りなく優しかった。握り続けた手を離した朝から、思えば何も話していない。避けてはいないといったはずなのだが、姿を見つけるときびすを返してしまうことが幾度もあった。
「男相手が嫌だと露骨に蔑まれたことも何度もあるんだ。流れに乗せられて気の迷いということもあるだろう。私は気にしない」
 穏やかにたたずむ蒼い色の双眸に、哀しげな色を見つけてクロムは口を滑らせた。「……違う。気の迷いであんなことができるものか」
「思い直す時間が欲しそうだったから、声をかけなかった」シグルドの視線を捉えようとしたが、窓の外を見つめて淡々と告げられる。「――すまない。出ていってくれないか。来てくれたことには感謝している。明日からはいつも通り」
「シグルド……!」
「頼む」
 それ以上、言葉が発せられることはなかった。クロムは無意識に自分の聖痕を掴み、その反対側にあったはずのシグルドの聖痕を思い出して、部屋を後にした。



「さては、何かあったな」腕輪の自室に戻ると、ルフレがベッドに足を投げ出しながら声をかけてくる。「君はわかりやすくって本当に助かるよ。仲間の女の子に片っ端から告白して、見事全員にフラれた日もそんな感じだった」
 壁の端で座り込んでいるクロムの脇に、「精神体でも腰は痛むぞ。これでも使ってろ」と枕を投げてくる。話している間も本の山を手放さない相棒は、ぐったりとして動かないクロムに眉を潜めた。
「で、理由を聞いてもいいかい? どうせ君から断ったんだろう」
「……なんの話だ」
「とぼけても遅い。詳しく聞くつもりもないから、はっきりさせておこう。シグルドに何か酷いことをされたのか」
「――」
「体の関係を持ったら」赤い顔を上げたクロムに構わず、ルフレは本を捲りながら続けた。「想像と違って、生々しくて相手が嫌になったとか。異性と違って、綺麗には終われないことも多いからね」
「ルフレ!」
 何があったの、と投げかけてくる。しばらく紙をさすらう音だけが、室内に深く響いていた。クロムは横を向いたまま、頭を抱えて苦しくなる喉をならした。その音を聞き取ったルフレは顔を上げたが、黙って本に集中しているふりをした。
「俺は、シグルドが好きだ」
「それは僕に言う話じゃ、」
「だからこそ。これ以上一緒にいてはいけないと思う」
「……えええ……?」
「ルフレ! 真剣なんだ!」
「いや、ごめん。僕の抱えている難問と似ていたから。つい」
 その言葉に抱えていた膝から顔を上げたが、予想に反して凄腕の軍師はベッドにおらず、精神体の気軽さでクロムの横に座っていた。
「セネリオもときどき、追えば追うほど離れていく」
「――やっぱり彼なのか。いつからだ。全然気づかなかった」
「今は君の話が先だ。僕らの方では冷却期間があっても問題ないという気がするが、君とシグルドはそうではない」ルフレは言葉を切った。「シグルドは、たぶん――」
「たぶん? なんだ。はっきり言ってくれ」
「別れたのなら関係ない話だ」
 ルフレのつれない返事はクロムの心を思わぬ強さで抉った。別れるもなにも、一緒になったのはあの一夜限りであるというのに。
「皆それを言うから、僕の方でも辛くなってしまったよ」ルフレはポツリと呟いた。「なぜ永遠を求めて、今ある時間に手を伸ばすことを躊躇うのだろう。マルスにしても、君にしても。一度そういう考えに侵されたら、時は止まっていると仮定して生きるべきだ」
「時は待ってくれないだろう……」
「いいや。違うね。僕とクロムとルキナが証明している。時が止まっていなかったら、会えない三人があの世界でも揃っていたんだ」
「――」
「ただ、紋章士としての君とシグルドの時間はそうじゃない。待っていたら誰かに盗られてしまうよ」
 僕と彼のように、と聞こえた気がして、クロムは口を挟んだ。「アイクに対する、セネリオの気持ちを言ってるのか? しかし、俺が思うに……」
「例えば」ルフレは遮ってため息を吐いた。「シグルドとマルスとか」
「……!」
「二人はとても親密だ。最初に顕現されてから数千年が過ぎたと聞いている。僕らとは比べ物にならない時間を、共に過ごしていたら。一度くらいそういう仲になってたとしても不思議ではない」
「馬鹿をいうな。マルスがまさか……リュールのことは、どうしたんだ」
「千年眠っていた永遠に触れられない相手の話かい」
「――」
「マルスは……彼は腕輪の紋章士である僕らとは、違う視点を持っていると感じたことがあるんだ。しばらく囚われていた後に、それを一層より強く感じた。彼だけは他の紋章士と違ってどこか平然としていたし、予定調和の内側に自分が置かれている気がしても、無闇やたらに反発するようなことはしない。彼が理性を無くして感情を表に出すのは、リュールのことだけに見える」
「そうか……? お前に言われなければ、それさえ俺は気づけなかった」
「――僕の見立てではクロムはなんにも気づけていないから、別れた方がシグルドのためかもね」
 立ち上がったルフレの裾を掴むと、クロムは言った。「それはどういう意味だ。シグルドがどうしたって?」
 ルフレは思いのほか、優しい顔で微笑んでそれをいった。「彼もマルスと同じさ。本心は隠すし、相手のことを考えたら自分の望みは言わない。機会をつくれるなら、もう一度話してみるんだね」そのままパッと消えてしまったルフレの姿をクロムは追ったが、現実の自室にも彼の姿はなかった。


 クロムはひとり、立ち竦んで部屋で拳を握りしめた。



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