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2024/06/06 

「調子が悪そうだと神竜様から聞いたのだけど」日も落ちきったエントランスで、セリカと共に現れたセリーヌが心配そうにシグルドを呼び止めた。「私たちにできることがあるかしら」
「ああ。問題ない」シグルドは慌てて手を振った。「いや、本当にたいしたことではないんだ。我々はおいそれと体調不良になることはない」
「あら。そうでもないと思うのだけど」セリカが言葉を引き継いだ。「マルスだけがなかなか戻ってこないことで、皆はつい貴方を頼りにしてしまっているわ。心労が続いているのではなくて?」
「君が戻って来てくれてから、そのあたり楽になっているよ。今回は私もかなりの間、囚われていたと聞くしね」
 邪竜の影響を受けているときの時間の感覚は、神竜の喚びだしのそれとは違う。目の前の景色さえも明瞭になることはなく、ときには剣を向けている者が敵か味方かさえ曖昧になり、起きている事象は意識の遠くに追いやられることが大半であった。
 つい先日までその状態だったセリカはシグルドの言葉に頷きつつ、それでもね……と微笑んだ。
「何かが心の重荷なっているようなら、私たちでなくてもいい。誰かに相談して。マルスの代役とまではいかないけれど。まあ彼と貴方はそのあたり、引き出しを開けてあげる側になるんでしょうね」
「違いない」シグルドは苦笑した。「マルスと私では、自分が言いたいことをお互いに飲み込んでしまうことも多いからね。そうだな。聞き役というなら君が適役なんだ、セリカ」
「どうかしら。私だって、聞いてほしいことの一つや二つ抱えているわよ?」
「まあ……! セリカ。悩みごとの相談役としては不充分でしょうけど、そういうときは私を呼んでほしいの。紋章士さまの壮大な話にはついていけなくても、お茶くらいならご馳走できるようになったのだし」
「ありがとう、セリーヌ。気持ちだけで嬉しいわ。……それにしても、腕輪の紋章士がこちらの世界に来てくれてから日が浅いのに、本当に心強いわね」セリカは複製技術と紅茶のみならず、食べ物の研究をしているルフレの勉強量を思い出しながらいった。「特にルフレとセネリオ――彼らの頭の中を覗いてみたいわ。複製に関しては当たり前のように異世界で使っていた技術だというから、魔術の説明を受けたのだけど半分も理解できなかった」
 シグルドは遠くの庭園を眺めつつ、首を傾げるセリカを慰めた。「少しもわからなかった私よりはマシだ。もともと魔術は専門外だったが、言い訳にしかならないな。彼らの中では理論が確立している技術なのだろう。覚えることが多すぎて我々だけで体得するのは難しそうだ……物理的な影響を無効にしつつ、薫りと味を言語化する――とかなんとか」
「マルスなら理解できそうかしら。つくづく不在を重たく感じてしまうわね」
「たくさん話をしましょうとお約束していたのだけど、私もほとんど紋章士マルスとその機会を得ることはなかったの……それでも、お二人の言ってること。わかる気がするわ。彼が英雄王と呼ばれるその理由もね。神竜様もさぞやお辛いことでしょう」
 不在が辛いという言葉の響きで、シグルドは胸の痛みに顔を歪めた。それに気づいたセリカが口を開きかけて閉じる。
 血の繋がりより深い絆を持って、リュールの中には母親であるルミエルの愛情が眠っていた。力を宿した髪の色だけではない、奥底に想いを封じ込めるちからのようなものが。何度かすれ違うことはあっても、シグルドとセリカは紋章士として存在した時間のほとんどを離れて過ごしていたため、その関係性を知る手だてはなかった。しかし身近にあってもその事実を隠し通したマルス以上に、感性の鋭い彼女には気づくものがあったのかもしれない。シグルドは視線を逸らさず、その目線をまっすぐ受けとめた。セリカは唇を結んだまま、ゆっくり目を閉じて静かにいった。
「セリーヌ。明日も早いから、そろそろ休みましょうか」
「ええ。シグルド、お役に立てなくてごめんなさい。ルイが新しい茶葉を用意してくれることになったの。今度、シグルドも御茶会に是非といっていたわ」
「ああ、それは楽しみだ。紋章士の誰かを誘うこととするよ」
「ルイを喜ばせるなら、男性が適役よ。腕輪の面々がソラネルに来てから、新しい扉を開いているんですって」セリカが微かに笑った。「そうね。クロムがお礼を言いたいと言っていたわ。貴方に」
「クロムが……? そういえば、今日はとても助かったんだ。ルフレも防衛には特化しているが、隙をつく壁越しの攻撃をクロムが力業ですべて弾き返してくれた。私のほうこそ、礼を言わなければ」
「じゃ、それで決まりね」
「ルイも喜ぶわ。おやすみなさい、シグルド」
「おやすみ。セリカ、セリーヌ。私はもう少し夜風に吹かれているよ」シグルドは少し軽くなった心のうちを振り返り、ふたりを見送る。しばらくして首を傾げた。「ルイも喜ぶ、か。しまったな――とんだ安請け合いをしたものだ」
 なんといって誘おう、とまだ深いところでは何も知らない相手の顔を思い浮かべて、シグルドは正装に覆われた首元を掻いた。それは生きているときの名残りの仕草だったが、指の動きに合わせて弾けた粒子は、なぜかいつもより暗い色を帯びていた。



「いつかの茶会の後に、ふたりだけで過ごそうと君を誘ったろう。大陸の諸税を掻い潜った貴族の遣り口が、如何にして庶民の目を盗み悪事が罷り通っているか。そんな話ばかりになってしまったことがあった」シグルドは掴んだ腕に力をこめた。「どうにも君には私の気持ちが伝わってないようだ。たびたび避けている理由を教えてもらえると嬉しい」
「避けてはいない……!」閉じられた扉のほうに戻ろうとするクロムの行く手を、再度現れたシグルドが遮った。「さ、避けてないぞ。それは気のせいだ。避けてはいない――」
「私がここまで怒るのは珍しいんだ。わかったら白状してもらおう」
「頼むから通してくれ、シグルド。叱責なら後でいくらでも聞こう。ルフレが本気を出せば、いくら魔道に長けているセネリオと謂えどただでは済まない」
 当時は不在だったマルスが戻ってきて、周囲も以前より落ち着きを取り戻してからのことだった。カフェテラスでの騒動をきっかけに事を進めようと詰め寄れば、思わぬ逃げ向上でクロムは抵抗するばかりである。シグルドはいつになく性急に口説こうとしている自分をいさめて、回りくどく退路を塞いだ。
「チェスというゲームはカムイの故郷、暗夜王国では一般的だったようだが。私の国にも似たような盤上遊戯はあった」シグルドは扉を遮ったまま続けた。「キングの逃げ場を塞いで、先に撃ち取った者の勝ちだ。今夜、逃げ場がないのは君のほうで、後ろで寝ている紋章士数名を叩き起こさない限り、その後はいわゆる詰め将棋になる」
「まったくもって意味がわからないが。白夜王国では将棋……というらしいな。あれは見たことがないが、確かにチェスのような遊戯に関しては、自警団の中でルフレに勝てる者は滅多にいなかった。あそこまで詰められるのはセネリオだけだ」
「二人の方では駆け引きが済んでいるから、勝負はついているんだよ」シグルドがどうしたものかと思案しているうちに、クロムは「だったら仕方ない。二人の問題だ、俺はもう寝る」と言った。シグルドは一度離したクロムの手首をパッと握った。
「やっぱり君はわかってないな」
「離してくれ……」
「いやだ」
 静寂に満ちた紋章士の間では、片手指に数えられるほどの指輪と腕輪が眠りについて浮かんでいる。そのほとんどは寝ている証拠に仄かな輝きと共に揺られていたが、ひとつだけ光らないまま台の上に落ち着いて、聞き耳を立てている腕輪があるのはわかっていた。シグルドはヘクトルなら皆には何も言うまいと覚悟を決めて、逃げ場を無くしたキングを勝ち取りに行くことに決めた。
 暗闇のなか、間近で輝く蒼い目は魅力的だった。いつからだろう、と数えることなく口説き落としてきた様々な男女の顔が浮かんでは消えていく。じっと己を見たまま言葉もなく視線を逸らさない。クロムの指を口元に持っていくと、小指の先からひとつずつ口づけた。
「お、おい――シグルド」
 一本ずつ時間をかけると、花が咲くように色を変えるので逃げる腰を片腕で捉える。握ってしまった拳の節に唇を当てると、よせだのやめろだの場所を考えろだの言う口が、うるさいと感じる。腹を立てるのはらしくないと気持ちを振り払って、最後に手の甲を捉える。口づける直前で顔色をうかがった。
「こんなに時間がかかるとは、思わなかった」
「……ッ、俺のせいだな……」
「いや。しかしルミエルほどの拒絶を受ける前に、できれば君には折れてもらいたい」
 両手で掴むと、抵抗もなくその手は眼前に差し出された。甲ではなく手首に吸いつくと、己の体が先に引き寄せられる。ほとんど変わらぬ体躯の下で、はあ……と諦めたような息が長々と相手の口からこぼれた。
「……俺は。得意じゃない」
「知っている」
「代わりにもなれんぞ」
「誰の代わりも要らないんだ」
「婚姻する前に娘がいることに気づいたような男の、どこがいいんだ?」
「違う男に取られてもまだ、忘れ去れない女性がいる。それでも求めた人の影もなお、引きずったままで君がほしい」
 抱き合う背中に腕がまわされ、「違いない……」と呻きながらうつむいてしまう。ルキナが目醒める可能性があるうちは触れまいとしていた唇に、指を伸ばすと戸惑ったように指先にキスを返してくる。驚いて声をあげると、意外なシグルドの反応に慌てたように離れた。
「――違ったか?」
「いや。続けてくれ」
「もうしない。指輪を磨かれているときにさえ声は出さないだろう」
「……あの仕組みは本当にどうなっているんだろうね」
 頭を撫でると、肩口に伏せたまま腕に力がこもった。その先を欲して疼くものが喉の奥にこみ上げるが、今さらながらにヘクトルの腕輪が気になって盗み見てしまう。予想に反して腕輪は浮いていた。状況を察したのか単純に眠気に負けたのか、真相はわからないが台座の上であの状態なら紋章士の意識も深遠の底だ。頬を寄せると焦点をさ迷わせた瞳が訴えてくる。いつもより低い位置にある唇を微かに捉えた後は、引き継がずとも互いを追うだけの時間だった。あまり巧みに誘導すると逃げられそうで。幾度か唇を合わせた後ではその算段も用を成さなかった。無意識に差し出される舌先を絡めとると唇が離れる。
「……ん、ぁ。駄目だ」
「いや、もっとだ。私にしては待ちすぎた」
「待て。ルキナが」
 息子の前で不貞を働く想像をしたら、気持ちは理解できた。ほとんどの紋章士が出払っているが、急に仲違いして戻ってこないとも限らない。
「私の部屋でしよう」
「なに、を……待て。そうか、ああ」クロムは合点がいったようにカフェテラスへ続く扉を振り返った。「ルフレと、セネリオか……この間、抱き合っていたのは。つまり、その」
 忘れてた、と。自分の感情の行く末さえまともに決められないクロムの言葉に、シグルドは笑いを堪えきれなかった。一度吹き出すともう後には引けず、声を出して笑ってしまう。「なっ……! 相変わらず失礼なやつだな」と赤くなる頬に口づけようとしたが逃げられる。振り返って背を向けた背中から抱きすくめたが、余韻を噛み締める間もなくパッと消えてしまう。現れると顔を見せないまま背中を向けていた。
「今夜は、これで終いだ。あっちもそうなのだと思うと、急に……」
「言いたいことはわかるが。『今夜』ということは、次があると思っていいか」
「……!」
「クロム」
 返事を待たずに名前を呼ぶと、振り返った顔が切なげに歪んだ。何がその感情に蓋をさせているのか、気づかないふりをしたままの自分は本当に愚かな気がしてしまう。
「俺、は――」
「お父様?」微かな声にハッとすると、ルキナの指輪がコトリと台の上に落ちた。「眠らないと……いけませんよ。紋章士になっても、疲れはするので……お母様に、叱られます」そのまま静かな寝息が消えゆくと共に、指輪は元の位置に浮かんだ。
「シグルド」
「ああ。すまない。私が考えなしだった」
「次はない」クロムの声が硬かった。「次はない、から」
「……望みがないなら、はっきり断ってほしい。思わせ振りな真似もしないと約束しよう」
「次なんてないんだ。いつもそうだった」震える声を遮るように顔を上げると、蒼い瞳が揺れた。「姉さんが傷ついた日も。ルフレが……俺を殺した日も」
 囁く以上に小さな声が、シグルドの耳を確かに捉えた。
「――」
 あんたも、そうなんだろう、と。身を寄せるより前に、かち合う眼差しで説き伏せてくる。「両方覚えているんだ。そのはずだ……記憶のなかで、俺は……最初は夢のようだった。時間が経つごとに鮮明になってくる。セネリオだけには通じるようだった。あいつも夢を見るんだそうだ。現実にしか思えない、現実以上に痛みを感じる、いくつもの夢を」
「クロム……」
「俺はどうかしている。だが、怖いのはそんなことじゃない。ルフレは俺を殺したことを後悔して生まれた存在だ」クロムは指輪の紋章士が誰も起きていないことをようやく確かめて、そのまま繋いだ。「どこかの俺がその裏切りに気づいたら。あるいは誰とも結ばれずに、ルキナが生まれなかったら。そう尋ねたら『たとえそうなったとしても、僕は何度でも戻ってくる』とあいつは笑ったんだ」
 その意味がわかるか、と。シグルドはかぶりを振った。蒼い粒子が揺らぎを持って、空気の流れに逆らうように絡みつく。
「つまり、今のルフレは」低い声が呟くその言葉に、シグルドは呻いた。「本当は覚えているんだろう。生前にやり直したすべての記憶を。それぞれ一部だとしても。俺と違って、俺以上のことも」
「クロム」
「支えてやりたい。誰があいつの前に立とうとも、背中は俺のために残して欲しいんだ。だから……!」
「約束しよう。ルフレを置き去りにして、君を独占したりはしない。恐れているものを分かちあってくれると誓うなら、私の手を取るんだ」
 差し出した手を躊躇いがちに握る手が熱い。「あんたは本当に、おかしな奴だ。俺のほうがなにもかも――少しばかり大きいのに」
「おや。それはさすがに、服を脱ぐまでわからないさ」
「何を言ってるんだ……」
「逃げたら承知しないぞ」
「詰め将棋だったんだな。全然、気づかなかった。俺ばかりかと」
「僕は」シグルドは静かに微笑んだ。「本当は、計算高いんだ。皆には気づかれていないようだが」
 姿を消しては二度と触れられない気がして、互いの指を離せないまま扉をくぐり抜ける。深夜のカフェテラスは既に静寂に包まれていたが、所在なさげに蓄音機の前に浮かんだヴェロニカを見つけると、クロムが目に見えて慌てた。
「――終わったの」
「いや、これは」
「これからだ」
「そう……痺れを切らして、誰か召喚するところだった」
「気を遣わせたね。恩に着るよ」
 ひとつだけ貸しといてあげる、と脇をすり抜けたヴェロニカの姿を追って、クロムが呻いた。「笑ってたな……俺の気のせいか?」
「いいや。ただヴェロニカの貸しは高くつくだろう。否応なしに召喚されるぞ」
「……」
「行こう。君の気が変わらないうちに」





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