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2024/05/02 

 集中力が切れているのも理解していたつもりだった。戦闘前から魔道書を取り落とすし、いつもはなんでもないようなことで躓いた。自身でコントロールできる、という過信も持っていないつもりだった。つもり積もって今に至るわけだが。
「挟まれているわ」アイビーが静かにいった。「ごめんなさい、ルフレ。弓兵の前に出てはいけない、とあれだけ忠告してくれていたのに――」
「気を引き締めてかかろう。僕で駄目なら、クロムに代わる。その判断だけはタイミングを誤ると……」
 想像したことに喉が張りつく。アイビーが言葉を引き取った。「私が死ぬのね。それも仕方ないわ」
 耐久職を選んで、彼女には陸で動いてもらっていた。窓の外では日も落ちかけた曇り空に、灯台の明かりが見える。せめて夜であれば身を隠して敵の隙を狙うこともできたのだが。自分が選んだ戦略なのか、人が選んだ戦略なのか理解できなくなるほど反芻する。知識は裏切らない、となぜ思ってしまったのだろう。アイビーの腕輪から、「後悔するのは後にしろ」と声がした。戦闘で互いが同時に姿を見せないのは、暗黙の了解というより必然的な戦略だった。
 気を抜くと生前の――といっていいかわからないが――感覚で、三人いると考えてしまう。現実には彼女はひとりだ。紋章士は個人で動けないがゆえに、ある意味では使役される傀儡のような存在だった。
「腕が切り落とされても、あなたたちは守るわ。約束よ」
「切り抜けてからいってくれ」ルフレは自分が冷えた口調でいることにおののいた。「アイビー。君がここで死んだら、クロムも僕も死んだも同然だ。仲間を喪わずに生きていくなんて、夢想なのかもしれない。でも、わかるだろう。心が死ぬんだ――そして僕らはもう、その心しかない状態なんだ」
「――ごめんなさい。伝えておきたかったの」
 魔道書を握り直す彼女の手が震えていた。「俺が出て、エンゲージするとどうなる」とクロムが聞いてくる。ルフレは頭を回転させたが、無駄な情報がちらつくせいで雑音が聞こえ始めていた。「ルフレ――ルフレ!」
「エンゲージはもう使えない。ここからリュールとブシュロンの元まで行く間に、日が落ちてくれれば……」
 一瞬の気の弛みだった。弾き返していた矢を懐に入れてしまう。いつもは豊満な胸をさらけ出しているアイビーのそこは、神官職のハイプリーストだったので頑丈なほど閉じられている。咄嗟に自分の魔道書を投げたが、一矢で霧散した。凶悪な影が気味の悪いほどの熱気に包まれる。考えなければ。
「本来なら」とルフレはつないだ。「セアダスに中枢からまわりこんでもらう予定だった。出足が遅れているのは、僕のミスによるものなんだ」
「セアダスはどこにいるの」
「おそらく中二階――ここから見えない扉の向こうだ。君がいつもの職種のままなら、造作もない高さだ。吹き抜けのことを計算に入れてなかった」
「そんなの仕方ないわ。開けるまでわからない扉の先のことまで、あなたが見通せるはずないもの」
 それが予測できて初めて軍師と呼べるんだ、と。励ましてくれる彼女に泣き言を聞かせるわけにはいかない。
「開けるまで、か」ルフレはひとつだけ思い出した。「宮内の地図には、確か階段があった」
「俺が見てこようか」腕輪から声だけ響く。信頼している証だろう。難局にあっても落ち着いていた。
「駄目だ。ふたり一気に離れて消耗戦に持ち込まれたら、今度こそ守りきれない。アイビーばかりか、近場で戦っているリュールや……」

 ――セネリオ。そうだ、と。

「クロム。リュールとセネリオの状況だけでも知りたい。彼らがペアを組んだままかはわからないが」状況に応じて作戦を変更できるよう、意志疎通のはかれる手段をとっていた。「戦況は有利なはずだが、手こずってると伝えてくれ。あと合流するには扉が邪魔だと」
 わかった、と蒼い光が出たと思えば一瞬で消える。二人同時は不可能ではないが最終手段として残してあるため、伝達に手間がかからない。
「アイビー。怪我だけはしないでくれ。傷が残るとクロムが責任をとるとか言い出すぞ」
 できるだけ軽く聞こえるように、絞り出した冗談だった。アイビーはぴくりとも笑わず、「私は独りよがりなの。そんなことになったら、腕輪を二本に分けなくては申し訳がたたないわ」と静かにいった。
「君まで僕とクロムのことを疑っているのかい?」
「馬鹿ね。そういう意味でいったんじゃないの。万が一そんなことになったら、あなたがもれなくついてくるわけだから、その――」
「……ひょっとして、知ってる? なんで皆そういうことだけ聡いんだ。僕はソラネルの恋愛事情、まったく知らないぞ」
 半ば青ざめて声を押し殺した。
「嘘をつかないで。それに簡単なことよ。『彼』は少し私に似ているの」アイビーは淡々と続けた。「本心から人を寄せつけたくないわけじゃない。距離が縮んで、よかったわね」 
 複雑だなあ、と黒い手袋で顎を撫でる。攻撃の手が休んでいる時間を狙って、退路だけは確保しておく。早く帰ってきてほしい……と一瞬思ったが、聞かれなくてよかった会話だ。相棒の鈍感さは天下無二のものだった。
「セネリオに、好きだといって。ちゃんと」
「――」
「あなたたちは繊細だから、言葉にしたくないでしょうけど……」いいさしてやめた。「ごめんなさい。お節介がすぎたわ。私、普段はこんなこと――今日死ぬかもしれないと思ったら、勇気が出るものね」
「いや。正直驚いてる」ルフレを見ると、拳を握って棒立ちしていた。「繊細だってのは褒めすぎな気もするけど。感情の機微には疎いよ」
 ふ、と笑った顔が、扉を指をさす。どこからともなく現れた巨大な光が、薙ぎ倒して扉をぶっ飛ばしてくれた。
「ここまでしろとは、言ってないんだけど……」
「大丈夫ですか?」リュールが頭上から声をかけてきた。いつもの五倍くらい輝いている。「すみません、エンゲージが切れるまで、しばらく待ってください。お怪我はありませんか?」
「神竜様。ありがとう。扉奥の弓兵まで倒れてくれたみたいだから、こちらはもう大丈夫よ。セアダスのところに行ってあげて」
「わかりました! ルフレ、クロム。またあとで」
 クロムは帰ってきてないぞ、といいかけると、アイビーがさすってる腕輪から「……助かったな。遅くなってすまん」とだけ言葉が。
「実体で戻ってくるとばかり――」
 いや、悪かった。先へ行こうと促してくる。不審に思ったが問い詰める前にアイビーが立ち上がった。「ぐずぐずしてられないわ。ありがとう、二人とも。生きて帰りましょう!」
 死ぬことのない紋章士に、寄り添うようにそう返してくれる。生まれた国が残酷だっただけで、今夜の姿にふさわしい聖女に見えた。ルフレはくすぐったい気持ちで「ああ」と笑い返した。


 戦闘は終わっても制圧までに至らず、手近な森林で野営することになって目当ての人を探した。アイビーに言われたことは忘れるように努める。今はそんな場合じゃない――幾度めかの言い訳を探せば気が済むのだろう。人伝に居場所を聞こうとするが、兵士の中には紋章士をよく思わない者もいるため、できるだけ顔見知りを頼った。
 ルフレは特に凡人らしい見た目をしていたため、蒼かろうか浮いてようが何をしても基本的に有り難がられない。その代わりなんとなく地味に溶け込んでいた。一挙一動すべてが王族、といった雰囲気の者たちが織り成す、華やかな仕草と優雅さがときおり自分を疲れさす。
 その上、人間も王族揃い――と考えて、うーんと宙を仰いだ。ちなみにクロムは勘定に入れてない。あれは野生児というか、その辺のペンペン草だ。
 一度ソラネルで、晩餐会みたいなものを開いた日がある。堂にいってるマルスとセリカの社交ダンスは素晴らしかった。観るものを圧倒させる素敵な舞だった。シグルドは楽器ならとフォガートにリュートを借りていたので、複製してあげた。複製の能力は紋章士すべてが扱えるわけではないため、基本的にセネリオかルフレが担当していた。軽快だが新しいような懐かしいような調べに思わず涙したものだ。歩き方から椅子に座る作法まで、溜め息が出るほど夢の中。
 自分でも意外なほど楽しんだのだが、クロムとルフレは何かないの? と聞かれて、苦肉の策で出したチキとの共同作業手品――。
「あれは酷かった。記憶から抹消したい。早く忘れたいのに、時が長すぎる……」
「今日の動きはたしかに『らしく』なかったですね」
  要件を早くしてください、と。叫んだり喚いたりするほどの元気はないが、充分驚いている。セネリオ、といっても、はい、としか返らない相手だ。
 難攻不落どころの騒ぎじゃないな、と自分を抱きしめるように守った。
「いや、忘れたいのは」今日、今日? そうだ、死線を繰り広げた今日――と思い出そうとして、アイビーの言葉だけこだまする。「あ、いや。うわ」目元を手で押さえると、顔から火が出そうになった。「ちょっ……と待ってくれるかい」
「そんな状態で、闘ってたのですか?」セネリオが顔をしかめた。「僕も暇じゃないのですが」
「そうだね、ごめん。行っていいよ」
「なぜ最初から遠隔で闘おうとしなかったんですか。囲まれてからでは、遅いのに」
 なぜってそれは。遠隔でセネリオをかばったり、うなずいて礼を言ったり、その応酬が。あるのかないのか自分にもわからない心臓に悪いからだ。
「上の空でしたね――クロムから聞きました」
「ごめん。……そこの材木に腰かけて、少しいいかな。暇じゃないんだろうけど」
「――」セネリオはうつむいて何か言いたげに目を伏せた。「わかりました」
 いつの間にか人の喧騒は遠くなっている。気を利かせたアイビーとリュールが、なるべく端のテントにいてくれてるのだろう。そんな気はないのにな、と言葉が漏れる。
「悩み事の相談にのれるタイプじゃありません」他を当たってくれ、といわれるかと身構えた。「ですから、怒らせるような話し方に聞こえたら許してください。先に謝っておきます」
 出会ったころより、ずいぶんあたりが柔らかくなった。ルフレとセネリオはそれなりに長いつきあいだが、深く話したことはほとんどない。国と国とで分断された時点で、紋章士は遠く離れた国外の紋章士と出会うことがほとんどなかった。気がつけば操られていたり、気がつけば滅亡していたりする数千年。
 長く時を共にしている。集まれることは二度とないかもしれない、と毎回思うのだが、セネリオだけはなぜか遠い存在だった。
「まずは今日の失態を謝りたい――手を煩わせて、本当にごめん。戦場で考えるべきでないことを思っていたんだ」
「ひとの生き死にですか」セネリオはぽつりといった。「それとも他の些細なことですか」
「どっちだったら、聞いてくれるかな」
「些細なことも、数が増えれば生き死に以上でしょう。特に人間は、いつかは必ず死にますから」
「――」
「とらわれているのも、これが最後になりそうです。小さな悩みからお聞きしましょう」
 ルフレは思わず破顔した。「そうだね。ほんとにくだらない話なんだけど。マルスがね。機嫌が悪い。最近リュールと組ませてもらえないから」
「……あれはほっときましょう。そのうち身に振りかかってきます」
「自分でもよくわかってないんだろうな。たまにやって来ると、リュールの話ばかり聞かされるんだ。この間も――」
「深刻なほうはいいんですか」セネリオはいった。「あなたはとても話の運びがうまいから、雑談に乗ってると聞き逃してしまう。なにか誤魔化しているときはとても饒舌だ」
 恋愛事ですか、と。勘だけでものを言わないセネリオがパシッと打ってくる。幻想の矢を受けた気がして、言葉につまった。
「紋章士の誰もが一度は通ってると聞きます。肉欲から開放されたぶん、精神的なつながりを求めて生きている者を頼るんでしょう」月が一瞬曇り、セネリオの表情を隠した。「マルスは幸せですね。竜族は長生きですし、年も取りません。千年間も眠りこけていたんですから」
「そうかな――彼は、本心を隠すのがうまいから」
「ひとの心配をしていられるなら、大丈夫そうですね」と言われる。「次は?」
「三個も話せって? これは難題だな」女の子じゃないんだから、といいさしてやめる。「紋章士って、死ねるのかな」
「……」
「ときどき不安にならないかい? 僕は不安で不安で寝られなくなることがあるよ。年長組というか、指輪組は落ち着き払ってるけど。あれ絶対よくわかってないやつだって! だって誰も今のところ消えたことないんだよ?」
「……死にたいんですか」
 わりと本気のやつだったんだけどな――と口にする。ルフレは膝に肘をついて前のめりになりながら、横を向いて顔を隠した。おちょけが通用しない。
 恋愛のほうだよ、といったら聞いてくれるのだろうか。
 今日、死んでたら後悔したでしょうから。伝えたほうがいいんじゃないですか――と。
「紋章士は死なないよ」
 少しの沈黙。伝わってないのか? とおそるおそる覗きこむと、「待ってください。話が噛み合いません」と真っ白になっている。
「セネリオ。顔色が悪い――」
「クロムから聞いたんです。すみません」
「――」
 そうだよな、と思う。長すぎる時間を一緒にいるんだ。喧嘩しようが何しようが離れられない相手だ。理不尽だよな、とお互い話したことがある。気軽に半身と言ったらこの有り様だ。せめて女の子で夫婦なら救いもあった。さすがにわかるんだな、と思う。
「アイビー王女は素敵な女性です。もしうまくいくようなら、イルシオンに掛け合うくらいのことなら僕にも手伝えますが」
「うん――?」
「……その反応だと、やっぱり違いますね」セネリオは目をぱちぱちとさせた。「ルフレ。クロムから何か聞いてませんか」
「だいたい読めてきたね。行き違いがあるみたいだ。アイビー王女じゃないよ」
 途中で戻ってきていい雰囲気に見えたのか――と検討をつける。まあとりあえずそれはいい。それはいいのだが。
「紋章士なんですか」セネリオがほっとしたようにため息を吐く。なぜ安心するんだ。「チキ以外なら反対はしません。好きにしてください。明日も早いので戻りますね」
「待って」
 立ち上がった左手首をしっかり握る。背が少し高すぎるんだよな、むしろより低く見せたほうがアピールできる、と変な算段をつけた。お互いうつむいたままだ。
 せりあがった言葉が出てこない。チキ以外なら、か。
「もう少し、いいだろう。君に話しておきたいことが――」
「何か隠してませんか」セネリオはいった。「なにか、黙ってることがあるはずだ。僕はあなたに隠し事がある」
「――」
「クロムはまっすぐな人ですね。あなたが隠してることについて、探りをいれたら拒絶されました。なぜ信じてやれないんだ、と。信じ合うことに慣れきってる様子だった」
 痛いとこをつくなあ、と手を離してしまう。信じあった結果、殺し合いに発展した世界から――一方的に殺してしまった悪夢の中にいる。


 実際、醒めない夢は長すぎた。


「僕は」
「――」顔を覗きこんでくるので、間近に向き合った。わかってるのか、と聞きたくなる。「紅く、ないですね。見間違いだった」
「おそらく見間違いじゃないよ。何を見たのか知らないけれど」
 セネリオの印に指の背で触れると、視線をそらした。これも何か意味があるんだろうな、と思った。話に触れたことはない。手袋をはずして、いっそ見せてしまおうかと思う。


 それ以上はなかった。おやすみも言えない相手。やさしい、戸惑いがほんの少し。それきりだった。




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