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2018/10/07 

「山田さん、落ち込んでるけど」アキちゃんの声が頭の上を素通りした。「あれ、どうかしたんですか?」
 僕は生返事を返して、窓際で両腕に突っ伏している山田さんをちらりと見た。
「WBCね、負けたの。五分で」
「ああ!」
「見てた?」
「少し。チャンネルを変えた瞬間にゴングが……」
 アキちゃんの言葉に、山田さんがピクリと動いた。僕たちはじっと固唾を飲んだが、その空気を察してか、山田さんはまた彫像に戻った。僕はため息を吐いた。
「決着は別にいいらしいんだよ。前の試合でもいろいろアウトな出来事が重なってたからさ」
「相手選手が、体重測定で引っ掛かったのが、ひょっとして? でも、よくあることですよね」
「本来ならあってはいけないんだよ。後ろから袈裟懸けに斬られた気分だって……」
「なるほどーーあっ。シマちゃん。おはよう。町内の催しでどうせ誰も来ないから、午後からでいいのに」
 おはようございます、といったシマちゃんの目は山田さんと同じく真っ赤だった。シマちゃんはそのまま奥へ引っ込もうとしたが、意を決したように山田さんの元へ戻った。
「山田さん。昨日の試合、どうでしたか」
 僕とアキちゃんは慌てて間に入ろうとした。シマちゃんは皆まで言うなとばかり手のひらを向けてくる。若さとは恐ろしい。二十代の失恋と五十代の失恋の衝撃は同じではないと実感する。山田さんはグシャグシャの顔を向けた。
「シマちゃん……負けちゃったよおぉぉ……」
「人生に負けはつきものです。あれは負けてもいい試合でした」
「あの人に次はないんだよ。あのまま引退なんだよ!」
「命は続くんです。次はあるんです。私のおばあちゃんは来世で役に立つかもしれないからと八十歳から中国語を始めました」
 シマちゃんの的はずれな慰めは、山田さんの脳裏に引っ掛かることはなかった。
「酷いよ……命かけてきてんだぜ……その一撃で目が見えなくなっても、脳天かち割られても、拳受けにきてんだぜ。米袋分重くていいなら違う競技行けよ!」
「山田さん」アキちゃんがもらい泣きしだした。しかし僕は知っている。彼女はボクシングに階級があることさえよく知らない。僕は僕でジャブとフックとアッパーカットの区別がつかない。
 シマちゃんは椅子の縁をギュッと握ったまま、静かに山田さんの嘆きを聞いてやっていた。忍耐力のある子だ、と僕はその背中を見つめた。
 シマちゃんは男だ。ナリは女の姿をしているが……どさくさに紛れて山田さんが腕の隙間から拳を出した。シマちゃんがどうします? という視線を寄越したので、歩み寄って、その拳は僕が握ってやった。顔を上げた山田さんが、向こう行けよという顔をしたので、隣の席に押し込んで無理やり座った。山田さんは鼻をぐずらせながら窓の外を見やった。
 お茶を入れたアキちゃんが僕の向かいに座ったところで、山田さんはまた話始めた。
「負けることはわかってたよ。年齢差だけじゃないんだ、根本的な闘い方が違っていたから。相性も悪いし不利だったんだ。勝てなくったって、1ラウンドK.O. 負けしたって、誰も文句なんかつけなかったよ。挑まずにチャンピオンのまま引退する人だって、たくさんいるんだから。そのほうがカッコもつくし、年も年なんだからさ……挑むことこそが全てだったんだ」
 僕とアキちゃんが顔を見合わせると、シマちゃんが言った。「他の格闘技は体重制限がないので、年齢差があっても他で埋め合わせも利きますが、ムエタイやボクシング関連だけは無理なんです。自分の体だけで、三十過ぎてあの場に立ってるだけですごい世界です」
 必ず痛みを伴うのだ。その場限りの痛みではない。勝とうが負けようが、場合によっては何ヵ月も続く痛みだ。
 僕の意識は慢性化しつつある腰痛についてさ迷った。山田さんがその悩みを静かな声で打ち消した。
「今の自分が出せる全力で、持ってるものだけで相手にも闘いにきてほしかったんだ。その上でこてんぱんだとしても、見る人はどっちも見ているんだよ。パンチに切れがなくたって、息切れしてたって、その体を作ってきた時間だとか、故郷に遺してきた人だとか、生き方すべてがリングの上には詰まってるんだ。実力では一瞬で勝負がついても、吐き出した熱の熱さは皆がずっと持っていくもんなんだ。そこを変えてしまったら、ボクシングなんてただの殴り合いだよ。同じ殴り合いなら、見た目で楽しませてくれるプロレスのほうがいいよ!」
 山田さんは僕の知る限りプロレスも好きだ。総合格闘技も観るにはみるのだが、にわか仕込みの僕にも多少はわかる。ボクシングは性質が違う。ルールは複雑化していくのに、規約に対しての穴が多すぎる。時として採点不良、博打じみたあり得ない負け方をするのだ。
「 山田さん。勝負とはそういうものです。あれは勝っても負けても、いい試合でした」
 シマちゃんは繰り返した。
「何にも負けない闘う闘志を観れたんです。半年間の結果もです。戦士はあの場に立つことがすべてです。いい試合でした」
 山田さんは納得いかないようだったが、試合を観てないアキちゃんが鼻をグズらせ始めた。「そうよね、試合には負けても、未知の細胞を見つけた功績は残る。人生は続く!」
 僕が彼女のヤマナカ違いを訂正する前に、山田さんがうなずいた。
「シマちゃんやアキちゃんが、そう言うなら……」その目に光が宿った。「そうかもしれない。いや。そうに決まってる。リングを降りたって、彼らは闘うんだ!」
 僕はほっとした。単純な優しさを山田さんから抜いたら、彼に取り柄などない。

 その日は仕事終わりに、山田さんとシマちゃんの格闘技談義につき合った。何の熱が感染したのか、それから半月後。アキちゃんがテコンドーを習い始めた。山田さんも乗り気だ。練習台にされそうで、いやだなあ。

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