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2017/12/07 

 須田さんが当てたと誤魔化した例の温泉旅館は、小豆島にあった。兵庫までは新幹線だが、フェリーに乗らなくてはいけない。須田さんを椅子に座らせて手続きを済ませた後に、トイレに行ったのがいけなかった。俺は須田さんとはぐれてしまった。
「須田さん? おーい、須田さーん!」
 出港の時間が迫っている。チケットは持たせてあるから、中で会えるだろうと簡素な荷物を持った。中高年の二人組はさぞや浮くだろうと思っていたら、むしろ中高年しかいない。小豆島は香川に属した小さな島だが、それほどポピュラーとは言えないからだろう。
 フェリーの中は半分座敷になっていて、思ったよりずっと広い。ひっきりなしに出入りする人間の波をかいくぐり、須田さんの姿を探すこと三十分。そろそろ着くというころになって、須田さんを見つけた。
 一部屋ごとに軽く百人はギュウギュウとしている状態から、五部屋目。窓際で子供や老人に囲まれながら、トランプの相手をしている。
「山田さん。遅いよ。どこ行ってたの?」
 この言い分である。俺は腹立たしい気持ちをおさえて、膝を折った。「ずっと探してた俺の身にもなってくれよ。万が一、須田さんが乗ってなくて、本土に置き去りだったらどうしようって。気が気じゃなかったよ!」
「そしたら特選郷土料理は一人で食べるつもりだったろ」
「まあ、アキちゃんに頼まれたオリーブオイルと、小豆島の醤油と、ラベンダーの芳香剤は絶対に買わなくちゃいけない使命があるからね」
 五分もしないうちに島に到着して、次は迷わないようにと俺のリュックにつけた毒キノコのストラップを須田さんに握らせる。フェリーは内部に駐車場が複数あるが、自分の車を探すのは須田さんを見つけるよりは容易かった。
「ずいぶん山のほうだね」須田さんは助手席で地図を広げながら言った。「運転。代わろうか」
「これからはずっと助手席でいいよ」
「山田さんの運転、不安なんだよ。曲がり道でスピード落とさないでしょ」
「サイドボードに毒キノコぶら下げて確かめたら? 左右の揺れで判断して俺も少しは気をつける」
「……視線がキノコにいってる時点で、不安だよ」

 どこまで行っても海と山しかない小さな島は、お隣の淡路島に比べて観光地としての魅力は少ない。それでも、ラベンダー畑やオリーブ園などゆらりゆらりと漂いながら須田さんと歩いていると、霧で見えない遠くの島や本土のほうまで見通せる気がした。
 旅館の主人は穏やかでにこやかで、恵比寿か大黒にそっくりだった。向かいのホテルに客足が取られている話から、跡を継ぐ気はない息子の愚痴まで幅広く口が回る。もてなしは最上級で、恐縮した須田さんが勘定を多めに渡そうかなと笑うほどだった。俺はその一言で、やっぱり福引きは嘘だったのかとほくそ笑んだ。家族用のカラオケで歌い、投げ輪のおもちゃで別室の家族と遊びながら、貸し出された古いファミコンを、須田さんの家のテレビより小さな箱で楽しむ。チャンネルは三つしか映らなかったが、素朴な時間が流れていた。
 つつがなく楽しい二泊三日はあっという間にすぎたが、問題が起きたのは最終日の前日だった。
「台風?」
「はあ。やっぱり通過するみたいでーー」
「フェリーが動かんのですよ。大事をとって早めに欠航扱いになりますんで。午前中ならなんとかなるんですが」
 須田さんは迷いなくいった。「もう二、三泊しよう」
「二人で五万はかかるよ?」俺は須田さんの浴衣の袖を引いて、番頭に聞こえないようにいった。「店のこともあるし、早起きは早朝の散歩で慣れたから。俺、頑張って起きるよ」
「なにいってるの。新婚旅行なら一週間はとるでしょ」須田さんは馬鹿みたいに普通の声で言った。「すみません。もう数日泊まりますので」
 俺はよせばいいのに勝手に赤くなる首やら体やらをもてあまし、二階の部屋に戻った。暗がりに昨日と同じく当たり前のように布団が二組敷いてあり、何をやっているんだろう、と冷や汗で急に冷静になった。いい年の親父が友達同士で旅行している。それでいいのに、あのバカは。
 きらめいた仲居の眼差しに、嫌気がさした。そんな自分にさらに恥ずかしさが加わった。わかってるのかわからぬふりをしているのか、番頭は算盤を弾いた。好奇の目線をなんと捉えればいいのか。バカは俺だ。今日に至るまで熱に浮かされて、ことの重大さに気づいていなかった。
「ーー山田さん?」
 須田さんを最初に好きになったのは、間違いなく俺のほうだ。彼は俺がどれだけ準備を重ねたのか、知らなかった。妻の出ていった理由も、アキちゃんとのすれ違いも、なにもかも。浮かんでは消えていく思いの数に、俺は戸惑いながら時計をはずした。正しいことをしているつもりだった。後ろで速足の雨風が、一瞬叫び声をあげて窓を激しく叩きだした。
「ごめん。さっきのことだけど」
「須田さん。明日帰ろう。予定通り」
 俺は廊下の逆光で見えなくなっている須田さんの表情を確かめようと、一歩近づいた。俺の泣き顔を見るのは初めてじゃないはずなのに、須田さんは俺が差し出した時計を拒んだ。
「とりあえず座ろう……」
「無理だ」こみ上げる涙を二の腕で隠そうとしたが、廊下を登ってくる重い足取りの音が聞こえて、俺は窓際の椅子に座った。須田さんは後ろ手に戸を引いた。
「すみません。明日のお食事どうなさるかなーと思って」旅館の店主の声だった。「宜しければ、隣の部屋に用意させますけども」
「お願いします」須田さんはいつもと変わらず少し掠れた声で言った。
 おやすみなさいませ、と足音が消えていく。月明かりもない真っ暗な部屋では、俺と須田さん二人きりとなった。

 俺が返しそびれた時計をじっと見ていると、脇に立った須田さんが返して、とばかりにてのひらを見せてくる。俺はためらいを隠して、その手に時計を乗せた。須田さんは机で体を支えながら、ゆっくり膝をついた。俺の意思とは真逆の気持ちで、俺の両腕は須田さんの首にかじりついた。
「ーーどうしたの」
「明日は帰るよ。絶対に」
「この雨じゃ、明日も厳しいよ」
「台風がなければ、気づかなくて済んだんだ」
 どんなことに、と須田さんが聞いた。俺は言った。
「自分の年齢に。あんたの性別に。昔好きだった人の嫌なところや、嫌いと決めた人の優しい面とかに。いろんなことにだよ。店とか、国とか、時間とか、全部含めた、いろんなことだ」
「それは重要かな」
 須田さんのくぐもった声の前では、反論するのに勇気がいった。
「ここにくる以前ならたいして重要じゃなかった。ここから先は、また戻らなくちゃいけない。制限のある場所で世間体を気にしながら、不自由に暮らすことになるだろう」
「ーー」
「苦笑いの嘲笑に堪えながら、指をさされるのも一人でなら我慢できる。でも今度はそれがずっと続いて、信頼して祝ってくれた人たちまで巻き込んで、なにより俺のことでーー行く先々で須田さんが恥ずかしい思いをするよ。時代が変わって、何もかも禁止されることだってあるだろう。明日も同じ気持ちでいられるかなんて、俺には約束できない」
「一度失敗してるからって、次も失敗すると決めつけるのはよしなよ」須田さんはいった。「いや、ごめん。失言だった。まずいくつか山田さんに言わなきゃならないことがあるんだ。とりあえず苦しいから、絞め殺す予定じゃないなら、腕をはずしてくれる?」
「福引きは嘘だって話なら、もういいよ」
 須田さんは椅子の前にある小机の下からティッシュの箱を取りだし、俺の膝に置いた。俺は盛大に鼻を噛んだ。備え付けの冷蔵庫からおしぼりも出してくれる。俺が顔を拭くのをそっと見守りながら、須田さんがぼそっと言った。
「実はそのことなんだけどーー旅館の人には、僕らのこと。予約したときに話してあるんだ」
 俺は下手な俳優の演出みたいに、おしぼりを取り落とした。須田さんは小首を傾げた。
「ほら。今回の旅行じゃ観光だけで体力使いきって、何もしてないけどさ。やっぱりどこでどうそういう雰囲気が生まれるかわからないし、生まれたら生まれたで、俺たち後がないだろ? いや、山田さんは現役かもしれないけど。俺には後がないんだよ……本当にないんだよ! でもさ、新婚旅行だと言っておけば、ちょっとは気分的に楽かもしれないなって」
「ーー」
 俺が絶句してるのをいいことに、須田さんはいつになく早口で熱弁を振るった。「向かいのホテルとか、何も言わなくても問題なさそうな場所も考えたんだ。ただ、それだと普通の旅行と同じだから。この旅館はとても評判がよかったし、山田さんと行くならこういう場所がいいなって、選んで決めたんだよ」
「……いつから」
「何ヵ月も。ネットとか、君と同じであまり得意じゃないの。知ってるだろ」

 あとには沈黙と強まる風の音だけが響いた。須田さんは俺の腕を取った。時計は元の場所におさまった。風を裂く音は一晩中高まり続け、俺は須田さんとこの旅行で試さなかったことを試しながら、今まで話したことのないこれからを話した。




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