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2017/12/06 |
須田さんと別れた帰りに商店街を歩くと、見覚えのある姿がポストの前でいったり来たりしていた。俺が後ろから脅かそうか、普通に声をかけようか迷っているうちに、アキちゃんのほうが先に声を上げた。 「山田さん。どうしよう。切手貼るの忘れたかもしれない……」 「あらら。大丈夫だよ、そういうのは郵便局からメモ書きと一緒に返ってくるから」 「わかってるけど。ちょっと大事な手紙だから、早めに送りたかったんです」 アキちゃんは普段は掴みづらい表情で話すが、今日は様子がおかしかった。俺は俺で普段は自分でもあきれるほど鈍感だが、その時だけはピンとくるものがあった。 「さては。相手のひと、男性?」 「女性です」アキちゃんは淡々といった。「でも読みは鋭い。大好きなひと」 きっぱりとした口調に気圧されて、俺は彼女が『先生』といった相手を思い出した。編集者時代にお世話になったひと。アキちゃんの憧れのひと。 「うーん。朝なら待ち伏せか郵便局に連絡すれば、なんとかなるだろうけど……」 「仕方ないですね。戻ってくるのを待ちます」 アキちゃんは小さなポシェットひとつで、これから買い物だという感じだ。俺は食事に誘うか誘わざるべきかで迷った。ああ、ほんのさっき須田さんと済ませたじゃないか。 「アキちゃん。お茶でもどう?」 新手のナンパ師もしないような髪のかきあげ方をしたが、アキちゃんは笑わなかった。よほど手紙の行方が気になるらしい。 「須田さん、怒らないですか」 「いまさら怒らないよ。なに言ってるの!」 「山田さんがいつもフラフラであやふやだから、マユリちゃんにまでヤキモチ妬いてたでしょ」 「……あれ、ヤキモチだったの?」 俺があまりにもキョトンとしていたからだろうか。アキちゃんはこれみよがしにため息をついて、「猫の餌を買って帰らなくちゃ。また明日」と笑いながら去ってしまった。 『それだけで、電話してきたの』須田さんは電話口で、あきれ声だった。 「うん。本当はさ、そっちに行ってもいいんだけど。開店準備手伝わされるのは嫌だなって」 『まさか……以前ガンとして泊まらなかったのは?』 「あれは違うよ。あんまり頻繁に寝泊まりすると変な噂立つでしょ。浪矢さんのときみたいに」 『君が流した噂のせいだよね。それまで泊まろうが何しようが、変な噂なんて流れた覚えないからね!』 須田さんは巧妙に話をずらしている。俺が聞きたい肝心の本音の答えは聞けず、いつもはぐらかされて終わるのだ。 電話口では電波の関係か、ときおり雑音が混じる。どれだけハイテクな世の中になっても、固定電話のコードは猫にかじられれば修理費用五千円なんだと、アキちゃんが嘆いていた。俺は須田さんの声がもう少し近づかないものかと、新しく配線工事したばかりの機械をいじった。 『……山田さん? 雑音が大きくなったけど』 「幽霊でもいるのかな」俺は肩口で支えた受話器に向かって笑った。「俺の友達にね、面白いやつがいてさ。携帯やら電話機だけじゃなくて、テレビとか家電とかバシバシ壊すのよ。しまいにゃ何にもデジタル使えなくて、理由を聞いたらお化けのせいだって」 『やめてよ。嫌いだよそういうの。深見のやつがそれなんだよ。アイツんとこ神社だけどさ、別に神様の類いは幽霊からは守っちゃくれないんだよ。むしろお稲荷さんとかさ、神棚の世話をちょっと忘れるだけで、榊は枯れるわ塩は溶けるわ……』 「しまいにゃ狐目になるんだろ? もー、よそうよ。寒くなってきた」 須田さんも怖い怖いと言いながら、笑っていた。他愛のない話で電話できる時間がもどかしくも楽しい。妻の長電話を「電話代高くなるから」と切らせていた過去を思い出し、俺は後悔した。年をとると振り返ることばかりだ。先に進めば進むほど、振り返ることしかなくなるのだろうか。 『どうかした?』須田さんの声が、急に明瞭になった。『ああ。繋がった』 それだけの一言が重く胸に響いた。ほんの数十年生きただけで、もう声の届かぬ場所に離ればなれになった人がいる。たった一度きり電話をすれば、繋がるだろうという人もいるかもしれない。相手が取らなければ永遠に繋がらないことを忘れている。切手を貼り忘れただけで手紙さえ届かない。受け止めてくれる人がいることを、当たり前のように思ってしまっている。 『山田さん?』 「ーーなんだよ」 俺はつとめて明るさを装った。声しか聞こえないはずなのだが、何か捉えたのかもしれない。須田さんは静かに言った。『また電話しよう。冬場はさ、寒いから。散歩もつらいし。なんなら毎日でも』 「須田さん、俺そんなマメじゃないよ。知ってるだろ。第一、こっちはプッシュホンだけど、そっちまだグリーンのダイヤル式じゃん。店なんてピンクじゃん。留守電も記録も残らないから、寝てたらそれきりだよ」 『スリーコールって知ってる? あれやろう。良子とはずっとワンコールだったんだけど。最近は一回だけ鳴らす悪質な無言電話とか、機械の調整音とか多いだろ? 三回鳴らして、すぐかけ直してよ。ああ、山田さんだなって、寝ぼけててもわかるし、取らなくても電話に向かっておやすみ、って言えるし』 俺は「そんなめんどくさいこと、絶対やらねぇよ!」と笑いながら電話を切った。そうしないといつまでも受話器にかじりついてしまいそうだ。携帯電話を持つのはまだ早いな、と時代に乗り遅れた自営業の親父に戻って、畳の上に寝転んでいたら。電話が鳴った。 ルルル、ルルル、ルル。で切れる。次が遅い。俺は期待を圧し殺して、電話機を見つめた。次に鳴ったら、取ろうか。取るまいか。次が本当に遅い。果たして電話は鳴った。俺は受話器を取った。 「遅ぇなあ!」 『ごめん。携帯電話からなんだ』 なんでそんな面倒なことを。かなり前に二人で見た韓流にそんなのあったぞ……と受話器をほったらかしにして窓の外を覗いて見たが、もちろん須田さんの姿はなかった。 『山田さん? 聞こえてる? 固定電話のほうが雑音だらけだから、ちゃんとかけられるか試したくて。まだどこにもかけてないんだよ。お店の人とアキちゃんが試してくれたときだけで』 「なんのための携帯電話だよ。宝の持ち腐れだろ。電話代かかるんじゃないの? かけ直すよ」 『いや、今日三十一日だろ。月末までは定額料金だよ。残り八分、かけなきゃ無駄になる』 「……じゃあ、あれだな。須田さん、俺がジャンケンって言ったら、グーかチョキかパー、って言って。はーい、ジャン、ケン」 須田さんはちゃんと反応した。俺も同時に反応した。「パーで俺の勝ち。ぱ、い、な、つ、ぷ、る。俺のほうは足踏みね。固定電話だし」 『ちょっと待ってよ。チョコレイトはいいとして、グリコじゃ永遠に会えないよ!?』 「永遠は大袈裟だよ。亀が間違いなく前進し続けていたら、アキレスが背を向けて亀の顔を想像しながらゆっくり歩くだけで、二人は必ず出逢えるよ。この世は丸いし、世界はとっても便利にできてるんだからさ! 使いこなさなきゃ!」 意味がわからないよ、とぼやきながら、須田さんと俺の口でのジャンケンは続いた。途中挟んだ無駄話も相まって、足を傷めたアキレスが亀の店に着くまでには一時間以上かかり、須田さんは風邪を引いた。 途方もない金額の電話代は折半することになったので、俺がスマホを持つ日はまだ遠い。 完 |