日曜日の行進

[chapter:1]

 有澤佳歩をどれだけ憎んできたか知れないけど、座席にめり込みながら思ったの。私が無くした半身は、目に見える肉体の話じゃなくて、有澤佳歩という存在そのものだったんじゃないかって。だって使い果たした体のほうは有り難いことに痛みを感じないけど、心の寂しさや痛みはいつまでも続いてるんだもの。相手が消え失せても同じことよ。それが怨みってもんなんだから。


◆◆◆1◆◆◆


「そろそろ公表しないと世論が」
「報道はいつだって美談だから困るな。どうするんだよ、あのゴミ屋敷」
「親族が来ているそうだから丸投げして……」
「財産が――相続税――」
「やめなさい。他の遺族の前だぞ!」

 葬儀社の車と棺が交互に並ぶのを見て、ああ。ようやく死ねたのね、私らしい最期だわと思っていたの。

 みんな悲しんでくれてありがとう。あと二十歩歩けば百だったのに、毛嫌いしてきた乗り物を使うなんて馬鹿な考えだった。いくら世界で二番目に安全な移動手段といったって、致死率が高すぎるのよ。いっそ一年かけて青森まで歩いて、船で海を渡ればよかった。ラーメンが食べたくなっちゃったんだけど、よく考えたらラーメンなんて、日本中、世界中、どこにだってあるじゃない。

 私、だいぶボケてたのね。一人の時間が長すぎて、誰も教えてくれなかった。私が間違ってたわ。コックのほうを、こっちに呼び寄せればよかったのよ。お金なんて腐るほどあるんだから。

 マサオミ。

 狂った怒声に紛れている息子を見つけたわ。何十年ぶりかしら。すっかりオジサンだけど、父親譲りの突き刺さりそうな鼻と、落ち窪んだ目が印象的ね。隣に父親だったことにしてきた気の毒な元亭主がいるけど、全然似てもにつかないわ。

 でもたぶん、アンタもわかっていたはずよ。雅臣は春生まれ。前年の梅雨には仕込んどかなきゃ計算が合わない。私たちの時代には、雨が降ったら他にすることもないから励んだもんだけど。貴方。梅雨だけは持病のリューマチで、どうしても出来なかったじゃない。どう考えてもすぐわかったはずなんだから。わかってて判をついたアンタにも責任があるわ。

「父さん」
「うん」

 親族やご友人以外は困ります、という人間を捌いてくれたのは、私の大叔父だったわ。この人だけが、雅臣の実父が誰なのかを知る、現存する唯一の証言者になってしまった。どうせ叔父様だってすぐに私のところに来るんだし、ご自慢の樫の杖でこの親子を叩いて追い返してもいい立場なのに。妙に義理堅いところがあるから。本当に苦手なのよね。

「棺はもう開けられません。あらかじめ到着を知っていれば、あるいは――」

「私も葬儀社なのでわかります」雅臣は父親の腰に手を添えながら、きっぱりと言った。「ですが他のご遺族の中には、特別に最期の別れの時間を取ったという話も耳に……」

「雅臣。いいから」

 あの人が頭を下げたわ。これが腹立たしくらい大きな頭で、若い頃は叩き甲斐もあったのよ。

 現実的な話、私の体は上と下とで分裂してたから、こんなところで開けるわけにはいかないの。可哀想に、最初に私を確認しにきたのは若い社員だった。勤続二年で私につくとか、学歴はよくても運のない子ね。どうしても席を取れなかったから、次の便で後から来る予定だった。あら、それなら運があるのかしら。でも棺の前で吐きながら泣いてくれたわ。

 ……あの小娘。今日は来てないけど、どうしているのかしら。死んだら承知しないわよ。目覚めが悪いわ。もう目覚めないにしても、すっきりしない。

 早坂は棺を一個一個開けられる度に、むせび泣いていた。初めは私も状況がさっぱり飲み込めなくて、彼女の後ろから棺を覗いたわ。人間の腕によく似た形をしていたけど、あるべき場所に体がないもんだから、作り物だと思ったの。趣味のいい時計だわ、と感じているうちに、早坂は目的の棺を見つけたらしいのよ。

「会長、どうして会長なんですか。私が、私が乗ればよかった。ごめんなさい。ももう申し訳ありません。申し訳ありません。申し訳ありま」

 その肉の塊が貴女の大切な誰なのかわからないけど、みんな見てるからみっともなく叫ぶのはやめなさい。私はここにいるじゃないの。アンタがひとりっきりになったって、私がここにいてあげるから――って、あの娘の頭を叩いたのが最初ね。

 叩けなかったわ。

 私は気味の悪い棺をもう一度覗いて、自分の痕跡をなんとか探そうとしたの。でもやっぱり何がなんだかよくわからないし、わかりたくもないと思ったから、変な風に曲がっちゃってる鼻だけ直そうと必死になったわ。シリコンが入っていたのよ。

 今さらどうだっていいことだけど、女が女である限り無視できない業のようなもの。あと何人かは赤の他人が見るだろう。恥辱にまみれた我が人生だけど、飛び出した目玉より鼻のシリコンが気になった。メスを入れたことに後悔してたの。私の鼻ペチャを気に入ってた男もこの世にいたんだから。

 だって仕方ないじゃないの。そんなに深く考えてないわ、生きているほうがずっと苦しいんだから。早坂、顔を上げるのよ。アンタは私と違って美人だし、勘違いもしてない。うちの会社に入ったことだけがアンタの厄落としなんだから、退職届を出したらすぐに転職活動を始めなさい。そして私の下にいたら独身で終わっていたかもしれない人生を今すぐ立て直して、美男で羽振りのいい男を見つけるのよ。

 この棺に収まっているなかで、一番運がいいのはおそらく私ね。万が一、万が一よ。ラーメンに付き合わせたことで、私の代わりに早坂が死んでいたら。私の良心はそんなつまらないことで痛まないけど、それでなくとも薄暗かった私の残りの人生は、深い闇に包まれたでしょう。若く優秀な社員の休日を、自分の胃袋を優先したために殺した女。そんな汚名は汚名以外のなにものでもないわ。

「母さん――」

 アンタの母さんじゃないから。雅臣は大叔父に頭を下げに行ってるのね。棺に頭なんか当てないでよ。ズレたら困るわ。通常のように小窓はついていない、ただの箱なんだから。息子を連れて来てくれたことには感謝するけど、今は早坂についてだけ考えてやりたいし。

 私はそろそろアンタの親友のところに逝くけど。あの世に精神的な貞操なんてものがあるなら、今度は守ってあげてもいいわ。どうせ悪くても十年足らずでしょ。

「寂しい思いをさせて、すまんかった」

 アンタだけは、私のペチャ鼻を目印にするのよ。わかったわね。


[chapter:2]

 手を放さなければ、とすぐに思ったので、俺は死んだ。的場の目を見たからであった。あのまま静かにしていれば、俺自身は助かったかもしれない。代わりに的場が死んだだろう。俺には妻がいるが的場にはいない。的場には子供がいるが俺にはいない。それだけが理由ではないが、一瞬の判断である。手を開いた理由など追っても仕方ない。どうしようもないのだ。俺は的場を心底嫌いでいられなかった。


◆◆◆2◆◆◆


「お悔やみを――」

 誰かの言葉に妻の聡子が顔を上げた。葬式の参列者が通りすぎた後で、引いた顎から垂れて落ちる汗を香典で拭った。気の強い女である。

 病室で対面したとき、俺の体はまだ息があったらしい。彼女の肩に手を回し、こんな事態を引き起こしてしまったことを泣きながら謝ったのだが、もちろん聡子には届かない。掴んだと思ったのは肩をすり抜けた首もとだった。グッと握った瞬間、聡子は眉をしかめた。俺はうわあと叫んだとたん天井に頭を打ち、痛みを感じなかったことで自分の状況に気づいた。

 幽体離脱というやつである――酔ったり熱を出したりしたときに経験したことがあった。本来あるべき体の重みというものが一切感じられず、不調もしんどさも滝行か何かで流されたかのように、気持ちがいい。俺は聡子に自分の存在を伝えようとしたのだが、彼女の前に降りたと同時に、

「早よぉ死にィや。あたし、シモの世話ようせんで」

と呟くので愕然とした。そのとき俺の母親は病室に轟く声で泣き叫んでいたため、聡子の非情な眼差しは、背中で受けるに留まった。俺はこの嫁姑が水面下でどれだけの戦を繰り広げてきたか、初めて合点がいった。

 おいサトちゃん。ここやで。全部聞いとるで! と叫びながら肩をポカポカと叩く俺の手を、聡子は虫に刺されでもしたかのようにペッと振り払った。

「お養母さん」聡子は視線を和らげて、母親の肩に手を置いた。「徹さん、苦しんではるわ。先生の言うとおりにしましょう」

 苦しんでいるも何も、俺の魂はここにある。体に戻るような自由は利かなかった。見覚えのない病室で見覚えのあるアホ面をさらしたまま、完全に死にかけていることだけは理解できた。俺は聡子の出した情報から素早く推察した結論をまとめた。

 俺。殺されんのとちゃうか。

「いやや……徹……徹ゥ」
「お養母さん」
「いややぁァァ」
「二千万」

 聡子が囁いた。俺の母親は「ウ?」と猿のような声を発した。

「徹さんの保険満額です。受け取りは私宛てになってますけど、半分差し上げます」
「うゥ」
「年金月々四万五千円じゃあんまりでしょう。受け取りも来年からだと言うじゃありませんか。お可哀想なお養母さん」

 聡子は畳み掛けるように母親の肩を揺すった。俺は説得されかけている母親の小さな脳ミソが、時代遅れの算盤をならし始めた事実に泣いた。

 三十年以上前に死んだ親父も、脳死判定だった。母親の姑、つまり俺の祖母が管を繋がれ二十年。息をしてくれているだけでいいと言う親父の代わって、面倒を見続けた直後の事故である。あのとき母親は五歳の俺の指を握りしめ、自分は仕事仕事でロクに病室に顔を出さなかった親父を見下ろし、

「お父ちゃん。お養母ちゃんのとこ逝きたがってるなあ」

と確かに呟いたのである。

 そして今の母親の目は、あのときと同じ鈍い光を放っていた。諦めという光である。

「わたし。昨年、肝臓壊したん」
「はい」
「一生、管で繋がれたないの。と貴女に言ったん」
「はい」

 母親は俺の顔を撫でた。「貴女。わたしの足を撫でながら、『寝たきりになって、どうしても死にたなったら。二回瞬きして、一回閉じるを繰り返してください。私が殺してあげますから』と言ったんや」

 聡子は微笑んだ。「やっぱりやめるとなったら、何度も何度も死ぬ気で瞬きして、とも言いました」

 俺は両手の指を使って、薄ら笑いを浮かべている自分の小さな丸い目を開かせようとした。死ぬ気でどころか、このままだと死ぬのだ。

 女ふたりは俺の前で胸の呼吸を合わせた。俺は騒ぎながら賢明なる判決の木槌を全力で阻止しようとしたが、静寂の中でなんの拍子か、動かないはずの半開きの目蓋が閉じて開いて閉じた。母親と妻の視線はベッドに横たわる白雪姫のような俺に釘付けだった。

「春日井さん」

 俺の主治医らしき男が、ノックをして病室に入ってきた。禿げ散らかしている。連れてきた男の看護士は連日の勤務で不精髭である。どちらでも構わないから、熱いベェゼで起こして欲しいという願いは終ぞ叶わなかった。

 睫毛の長さだけは美青年と謳われた俺の目蓋は、肉の厚みのせいでパチリと開いた。本気を出せばいつでも痩せられると慢心していた報いである。二度の瞬きの後は目を瞑るだけ――そのときアホな看護士がカーテンを引いた。俺の目は眩しさから反射的にしっかりと閉じられ、その後二度と開くことはなかった。

「先生――」

 母親は決意が鈍る前に頭を下げた。俺は聡子の言った言葉に激怒して彼女を振り返った。しかしそこには、嗚咽を漏らしながら鼻水を垂らす、惚れた女が一人立っているきりだった。

 俺は聡子を赦した。


[chapter:3]

 片山の頭が潰れるのを見ました。片山というのは私の同級生です。アメフト部に所属していた私と違い、片山は囲碁・将棋部に籍を置いていました。しかしうちは県内で一、二を争う体育大学だったため、文化系の部活動に精を出す人間は一握りしか居ません。片山が囲碁・将棋部に入ったのは理由がありました。推薦で入学が決まった春休みに、免許を取ったばかりのバイク事故で聴力を失ったのです。


◆◆◆3◆◆◆


「お父さん!」

 私は咄嗟に振り返りました。人間、本当に驚いたときというのは言葉が出ないものです。娘の名前は紗智といって、私が名付けました。妻と私は親子ほど年が離れていた上に、なかなか子供ができなかった。私が還暦を過ぎて、ようやく授かった娘でした。

 周囲の大人が私のほうを見て、訝しげな眼差しを寄越します。そういった視線には慣れていました。私と紗智はどう見ても親子には見えません。もとより年以上に老けて見られるせいで、整形手術も真剣に考えたほどです。しかし特にどうしようもないのが、髪の毛でした。父も祖父も曾祖父も薄毛でしたので、私の学生時代の渾名はザビエルでした。後にイエスズ会は剃髪の慣習がないと知るのですが、なんの慰めにもなりませんでした。

 それが娘のためになると本気で信じていたので、古希が来る前に決行に移そうと、妻に内緒でへそくりを貯めていました。植毛は時間もお金もかかるのです。娘が中学校に入学する日を最終期限と決めていました。もうどうしようもないのであれば、水死以外で死ぬ方法を考えようと思いました。生え際の魔術師としての異名は、定年後に入った会社では広まっていなかったからです。水死は絶対駄目です。ワカメのようになるのです。

 二度と馬鹿な考えを起こさないと決心したのは、紗智が小学校に上がってからでした。紗智の同級生に、それは可愛らしい女の子が居て、名前は美憂ちゃんというのですが、生まれつき腎臓が悪く、週に二回も透析を受けておりました。

 美憂ちゃん自身も可哀想な身の上ではあるのですが、娘の幼友達と私の頭髪に対する劣等感は、何ら関わりはないのです。私の考えを変えたのは、私にとって初めての日曜参観でのことでした。

 一年目こそ紗智が不憫なので行きたくない、と妻に言いましたが、二年目は断れませんでした。妻がPTAの役員になってしまったからです。私の名字は一風変わっているため、昔から投票の類いでは何かと不利でした。よく知らない間柄では、皆さん適当な人間に投票しているつもりなのですが、変わった名字は票が集まりやすいのです。妻が困りきった顔で、

「私が行けないときの伝聞管理は貴方に頼まなきゃならないから、役員の方の数名だけにでも顔を見せておいてほしいの」

と言うので、私は日曜参観に参加しました。もちろん一番年上らしいお父さんは私でしたが、家庭の事情で祖父が来てくれたという人もいたり、年の離れた兄弟が学生服で現れたりするケースもありました。

 私は心底、安堵しました。奇異だという負い目や偏見は、私自身の問題だったのです。なにより紗智が嬉しそうでした。

「失礼します。遅れました――二年三組はここで間違いありませんか」

 後ろ扉は開け放してありましたが、普通の参観より参加者が少ないからでしょう。そっと挨拶をして入ってきたスーツ姿の若いお父さんに、「パパ!」と黄色い歓声をあげたのは美憂ちゃんでした。それと同時に、子供たちが一斉にざわつきました。

 彼はどこからどう見ても30代そこそこの若者なのですが、頭髪が真っ白でした。

「美憂ちゃんところも、おじいちゃん?」
「違う。パパだよ!」
「ああいう頭のひと、テレビで見たよ。歌をうたうの」
「違うよ。カイシャインだよ。美憂のパパだよ!」

 担任の先生が静止するのですが、子供たちの好奇心は止まりません。美憂ちゃんのパパは気を悪くした風でもなく、にっこり笑って説明しました。

「おじさんはね。この頭は生まれつきなんだ」
「わかった! 絵の具で染めてるんでしょ」
「うちのママもそう」
「うちのパパはシュッてするやつ!」
「アメリカジン!」

 暴露される度にあちこちで悲鳴が飛び交います。笑いもありましたが、私は自分の番がいつ訪れるのかとヒヤヒヤしていました。しかし紗智は口を開きません。私のほうをチラッチラッと横目にするばかりです。

 いつまで経ってもやまない質問に、美憂ちゃんのお父さんがポツリと言いました。

「おじさんも染めたいんだけどね。そういうのも出来ないんだ。子供の頃から病気で薬を飲んでいて、それのせいなんだよ」

 その声に、教室は一瞬で静まり返りました。

 困った顔をしたのは美憂ちゃんとお父さんです。はりつめた空気の中で、美憂ちゃんが下を向きます。紗智が何か言いたそうに私のほうを見ます。私は必死で顎をしゃくりました。紗智はうなずきました。紗智には私がわかっていたのです。

「うちのお父さんはね」紗智は美憂ちゃんのほうを向いて、言いました。「頭の端から毛を被せてるの。吹くとすっごく怒るんだよ……」

「嘘をつくんじゃない、コラ!」

 私は赤面しながら慌てて自分の頭を押さえました。内心、(グッジョブ紗智!)と手放しで娘を褒め称えました。

 しかしその言葉に、大人の冗談が通じない我が子が、裏切り者を見るような目で私を睨みつけます。私はしまった、と思いました。

「ホントだもん! 紗智、嘘つきじゃないもん!」

 すっかり涙目になりました。私の慌てかたは今思い出しても悲惨でした。慌てて額をかき上げて証拠を見せ、娘に自分が悪かったと頭を下げます。「ごめんなさい。紗智は嘘つきじゃないんだ。嘘つきは私です!」

 一瞬静まり返った教室。しまった、ますます空気が――と思った次の瞬間、なぜか沸き起こる「おおおおお」という歓声と拍手。

 その日のヒーローは紗智と私でした。私はたくさんのパパ友を手に入れました。髪の悩みのみならず、アンチエイジングの仕方までレクチャーする羽目になりました。

 さすがに妻は大恥を掻いたと怒るに違いないと思っていましたが、「顔が好きで結婚したから、頭や年齢は見て見ぬフリをしちゃったのよねぇ」と笑いこけました。

 私は顔が好き、という妻の言葉を反芻しながら、髪の毛を吹いて遊ぶ紗智をギュッと抱き締めました。もうそんな些細なことなど、どうでもよくなっていました。

 紗智が私のほうに向かって走ってきます。

 そのとき私は、紗智を抱き締めようと膝をつきました。自分がなぜそんな場所にいるのかわからず、周囲から聞こえてくる嗚咽や叫び声に怯えている娘をあやしたかったのです。これからは何度でも髪の毛を吹かせてやろうと思いました。この頭は最後の一本が無くなるまで、紗智と私のためにあるのです。

 娘の腕が宙をかき、転けた彼女にすがりつかんばかりに妻が地面に倒れこみました。そのとき初めて、私はこの騒々しい葬儀所がなぜ人で溢れているか気づいたのです。紗智は妻に抱き締められながら、私の顔をハッキリと見ました。その表情は、あの日曜参観と全く同じでした。

 紗智、吹け。いいから吹け!

 私は顎をしゃくりました。涙が次から次へとこぼれます。紗智の目が潤みました。愛らしい桜色の唇がすぼまります。最期だとわかっていました。紗智は吹くのをやめました。

「――大好き」


[chapter:4]

 名前を尋ねるとタカフミと言うので、手のひらに書かせたら貴文という字だった。児島さん。あなたの弟と同じ名前じゃないですかと声をかけたが、僕の上に重なっている足が、再度動くことはなかった。僕の下敷きになっている少年の息もやがて途絶え、僕は一人きりになった。孤独も長くは続かなかった。神様もそこまで非道ではない。寝たり起きたり、起きたり寝たり。僕は白い世界を夢見て漂った。


◆◆◆4◆◆◆


 教会のベンチに侑真が座っている。僕はおかしなこともあるものだと思った。侑真は宗教を嫌っていた。

 同じく肩を落としている誰かが前のほうに座っているほかは、静かである。僕は彷徨いたが、教会の外には出られなかった。半透明の幕が降りているみたいに外側が見えないので、僕は首を傾げた。侑真が振り返った。

「高砂君。チャオ」

 僕は苦笑した。まだ覚えていやがる。ナポリ生まれの侑真をからかって、お互いの挨拶はチャオで統一したのだ。侑真自身は自分が四分の一イタリア人だという自覚はほとんどなかった。日本で育った。明太子が好物だった。

「どうしたの。虚ろってるの」

 僕には意味が掴めなかった。近所に連なるバーの中でも、特別気に入りの店を思い出した。行こう、と袖を引いたつもりがうまくいかなかった。僕は自分の手を回しながら見つめたが、侑真は落ち着き払っている。

「君の体はまだ見つかっていないのだ。家族が遺品を探しているが、靴のひとつさえ判別できない。君は身につけるものにこだわりがなかったろう。俺もよくよく考えたけど、君の持ち物で覚えているものなんて本くらいだ。燃えてしまわないのは間に挟んでいた金属製のブックマークくらいのもので、君は最初の彼女にあれを貰ってから、ずっと好んで使っていたね――ところで高砂君、どうして」

 どうして俺の車に乗らなかったの、と侑真は聞いた。

 僕は急に居心地が悪くなって、祭壇の近くに座る人影を気にした。地元の小さな教会である。こんな妙な会話を聞かれたらと思って、僕は自分の小さな自意識を無視できないでいた。侑真は悪い男ではないが、ときどきおかしなことを言いだすのだ。

「あの老人は、君のご先祖だよ」侑真は座り込む小さな背中に向けて、指をさした。「君の親御さんがどうしてもと言うので、葬儀は寺で終えたのだ。しかし君自身は信仰に忠実でいなければという強い思い込みがあった。まだこんな場所でさまよっている。同じ宗派のご先祖が一人だけいたので、少しばかり無理をして呼び寄せたよ」

 どうして俺の車に乗らなかったの、と侑真は繰り返した。僕は記憶をゆっくり辿ってみたのだが、侑真と何を約束したのか覚えがない。侑真は何の話をしているのだろう。

「涼子ちゃんも泣いていたよ」

 涼子――僕の頬をなま暖かいものが伝った気がして、指をやった。僕の妹である。

 僕は礼拝堂の大仰なステンドグラスから差し込む、鈍いオレンジ色の光を見た。祭壇の前にいた人がゆっくり立ち上がると、後ろを、僕らのいる側を振り返る。和装だった。時代劇にでも出てくるような袴を履いていた。顔は逆光で見えないのだが、優しく微笑んでいる気配を感じた。高砂君、どうして――と侑真が繰り返したので隣を見たが、彼は靄でもかかったように、静かにたたずむばかりだった。

 侑真の髪が光って見える。やっぱり日本人の黒髪じゃなかったんだな、黒っぽく見える茶色だったんだ。深く沈んだ灰色の目の位置に指をやったが、幼なじみがその手を握ると、僕の指は空中で分解した。

 侑真、僕のポケットに紅水晶の招き猫が。

 あんな割れやすいものをお土産なんかにするんじゃなかった。僕はふいに思い出した。涼子はパワーストーンを集めていたし、時計台のやオルゴールの土産物は僕の財布事情としては高すぎたのだ。

 記憶をひとつ手繰る度に、侑真の色が薄れていく。あの日、あのときも――飛行場で別れる間際、僕を送ってくれた侑真の笑顔が凍りついた。

「高砂君」

 侑真はどこか遠くを見ていたので、僕は待った。子供の頃に片方だけ無くした靴を探しあて、掘り起こしてくれたのが最初だ。侑真は失せ物探しの名人だった。そんなに先の話は無理だけど、試験を受け終わった直後の僕の答案結果くらいは当てるくらいのことができた。

「旅行はキャンセルだ。安永さんに電話して」
「ここまで来て何を言ってるんだ。送ってくれてありがとう。戻ったら酒を奢るよ。久しぶりに飲もう」

 僕はキャリーを車からおろした。安永知世というのが僕の恋人で、大学院を卒業したら結婚するつもりだった。僕を待っている彼女のメールに気持ちが焦って、チケットを落とした。侑真はそれが風に吹き飛ばされる前に踏んだ。

「――俺の車に乗るんだ」

 自分で選ばせなきゃ駄目なんだ、と以前に侑真が言った。生死についての微妙な予感は画で見えるほど明確ではなくて、無理に引きとめようとすればするほど、引き寄せられるように明るいほうへと走ってしまう。今日それが起きるから予定を変えろと言っても、変えた先でそれが起こることもあるのだと。

 それが寿命というものなんだろう、と。

 侑真の視線の先には飛行場があった。人がせわしなく行き交っていた。僕は侑真の切迫している表情を確かにこの目で見たはずなのだ。彼の能力をよく理解して信じてもいたはずなのに、車には乗らなかった。

「決まっていたのだ」

 侑真がそう言うのなら、そうなのだろう。僕はまだ話したりないことがあったので、僕のご先祖とかいう人に頭を下げた。

 貴文くんのご両親に、青いゲーム機。児島さんの弟に、正露丸の瓶――。

 侑真はひどく困った顔をした。声が出ないかわりに、強く強く、心の中で、何度も何度も繰り返した。僕の体が見つかっていないと言うなら、僕を上下に挟んでいた彼らも見つかっていないはずなのだ。

 侑真の思念がとんできて、恋人や妹や両親や他の友人の顔でいっぱいになった。見知らぬ誰かの話ではなく、彼らに言い残すことはないのかと考えたのだろう。

 思い返す顔が浮かぶ度に、僕は満たされた。彼らが僕のことをどの程度想ってくれているかに関わらず、これまでもこれから先も、僕の中にある気持ちだけが僕自身を癒すからだ。

 僕を引っ張る糸が消えて、辺りは静けさを増した。侑真が引いている他にも糸の気配があったけど、顔を出すには執着の想いが強すぎて、侑真くらいの力になるまで時間が必要だと感じた。

「高砂君。チャオ」

 またな。という言葉に聞こえて、僕は喜んだ。疲れがとれたら、また。なのだと思う。僕の周りは光であふれた。







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