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『大正浪漫記譚・弐』

 摂政関白を出す五摂家のうち、変人を多く世に出したのがこの華族だった。


 家柄としては一応由緒正しいことになる筈の私でも、公爵家特有の上品さや遠回しな物言いの付き合いには、特にいらぬ精神疲労を使う。

 現当主の父親は御年九十幾つかにはなるはずで、まだ耳がよいらしいのも胃痛の原因だった。

 何度か家の出入りは許されているが、対面したのは赤ん坊のとき以来。

 客人の大半が時刻ぴったりかその前についているにもかかわらず、大幅に遅刻した若造には冷たい視線の数々が待ち受けていた。

 そのうえ本日、妻は家に置いてきたとあれば、周囲の注目や顰蹙は私だけに集中していた。予想以上に散々の訪問である。

 客人のいなくなった床を一心不乱に磨く者たちの頭には、私の顔しかないのだろうなと思った。


「一瞬だけ物音ひとつ聞こえぬほどだったね。静寂が恐ろしいかった」
「人事みたいに……」
「人事だもの。西条君、父君はお元気ですか」


 気楽に近づいてきたのが、この家の次期当主・加那原仁乃助だった。

 名前の重みに似合わぬ、くりっとした小兎のような風貌である。律儀に腰を折って挨拶しかけると、いまさら丁重に礼などしても知らないよと笑った。


「何故君を呼んだのか忘れかけているところだった!つまらないったらありゃしないよ――食事の席をぶち壊してもらいたかったのだけど」
「知るか。都合を聞くより前に人の予定を埋める癖をやめろ」
「庇ってやったのにその言い草。変わってないなぁ」


 私が登場したときのことを云っている。大広間では年始の会の最後の挨拶が終わろうとしていた。執事の出迎えより先に扉を開けたのがまずかったらしい。

 召使いの制止も聞かず、外側以上に広くて入り組んだ家の奥へ行く。

 遅れた人間に対しても粗相があってはならぬと云う配慮だろうが、案内を待っていては坂垣の自動車が車庫につく前に全てが終わりそうに思えた。

 真新しい赤絨毯に滑りそうになりながら、息を切らせて目的地へたどり着くと、それが悲劇の幕開けだった。


「給仕頭が云うに、後部の人間だけ驚かして颯爽と登場の予定だったそうだ」
「扉の前で待っていれば済む話だろう!」
「外からでは時間がかかりすぎるから事前用意したんだよ。トルコ製の絨毯ねぇ。使い始めがツルツルだからいけないんだ」


 グラスタワーにシャンパンが注がれる予定だった。外開きの両扉を誰かが猛烈な速度で開け放ち、勢い余って中へさえ入らなければ、何事もなく終わっただろう。


 滑ったと同時に近くの御婦人の裾を踏み、

 きゃあと抱き着いた相手は積極的な熟女に驚いて背中を反らせ、

 頭をぶつけられた紳士が怒鳴ろうと一歩足を出したところに子供の足があり、

 ぴょんと跳びはねると誰がマナーを破ったのか、連れてきていた犬の尻尾に――――


 およそ十秒の連鎖的な出来事によって、シャンパンと硝子の雨が周囲を舞った。


「まあよかった。君が無事で」
「本気で云ってるのか……ずぶ濡れになった客の中に私がいれば」
「君の借り物のスーツの代金を払うことになっただろうね。おそらく僕が」
「喧しい。これは知人のだ」


 小首を傾げて悪魔は笑った。憮然とする私を見て、遂には腹を抱える。

 寄り掛かろうとした壁の前に、彫刻品があるのも忘れて。

 あ。と二人同時に手を伸ばしたが、彫像は真横に倒れた。音の凄まじさより、振動が部屋中に響き渡った。

 使用人の視線の痛さが、倍になったことは云うまでもない。その殆どは今や、家の主に向けられていた。





 教訓。人は最初に失敗した者のことは忘れる。後に来た者がその分まで被ることになるからだ。







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