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『大正浪漫記譚・壱』


 赤煉瓦の壁に覆われた御殿を見上げて、溜息を吐いた。


 正月を祝う万国旗が並んでいる民家を横目に、丘を上るとそこが加那原邸である。

 流行している質の悪いスペイン風邪を親族が患ったという根も葉も無い噂のせいで、自分一人が挨拶に出遅れた。

 袖を通したことのないヘリンボーンツイードの三つ揃いで、慣れぬ言葉遣いを暗誦する。

 新しい運転手が鏡越しにこちらを見た。


「何か可笑しいか。緊張しているのだよ」
「――――失礼致しました」


 君は初顔だからよくわかってないらしい、と呟いた。はい、と返事をしたきり余計なことは云わない。

 誰の家から来たのだったかと考えて、ああそう商人の家の何処かと記憶を呼び出した。


「以前居たのは、反物の……市之枝?」
「いえ」


 違った。だがイチが付いた気がする。

 名前に疎かった。上の兄などは殆ど一度会ったきりの人間の名前を覚えている。しかし度を超して変わり者だから、高尚な趣味に溺れて家を出た。


「学習院から同じだ」
「――――何がですか」
「訪ねる男が。ほら。屋敷に入る前に、そこの門構えを擦ってくれ」
「要望には応え兼ねます」


 見覚えのない門番が門を開けて、もう半分涙目になりながら帰りたいと訴えた。


「板垣、頼むから」
「反物は市之枝ではありません」


 そして私は退助ではございませんと続ける。

 オヤ、と横顔を覗き見ると、無表情に唇を引き結んでいる。


「知っている。一ノ瀬だろう」
「ですよ」
「思い出した。問題児の息子がいたっけ」
「私は坂垣です」
「綺麗な顔をしていたな」


 坂垣です、旦那さまと云った。自分より年上の人間に旦那さまと呼ばれるのは辛い。


「覚えたよ。たぶん」
「それはようございました」


 こいつは見かけのストイックさに惑わされてはいかんようだ。単なる運転手の域を越えている。懲らしめなくては。


「おまえ。少しかわいいじゃないか。よく見れば」
「よく?目も悪いのですね、旦那さま」


 頭と同じく、と幻聴が聞こえた。

 怯むまい。怯んだら負けだ。数々の男を相手にしたが、主従関係を越えたことはない。



 馬鹿にされたことが逆に気を引いた。



 だだっ広い庭園をぐるりと周りきる前に、肩に手を添えた。


「坂垣。今晩暇かね」
「旦那さまほどでは」


 屋敷の執事が手を挙げて誘導する。私が最後のようだな。下っ端に任せればいいものを、律儀なことだ。


「空けておきなさい。鍵は部屋の前の植木だ」


 指を首筋に這わせる。身じろぎもせずに車を止め、振り返ると彼は微笑んだ。

 ああ、横顔で思った以上に整っている。華があるわけではないが好みだった。妙な期待に要らぬところが疼く。

 一息つく間に扉が開いて、俊敏な男だと目を合わせた。もう笑っていなかった。





「子供は相手にできませんので。さて、遅れているのですから早く降りなさい」







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