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『大正浪漫記譚・参』

 坂垣はハンドルを白い手袋の指で叩き、あの方はと続ける。


「帝国大学に興味がないのですよ。何だか飽きたのとおっしゃって、今日の調子ですからね」
「授業に出ないのは聞いている」
「何処で何をしてるかは――」
「知らん。ダンスホールで女学生と踊ってるらしいと学内では噂になってるよ」


 坂垣はそうですかと唸った。

 何を黙っているのだ?一ノ瀬の口から聞くと言えば、妙に歯切れも悪く返事にならぬ会釈を返した。


「坊は、いずれ慶應義塾に移る気ではないですかね」


 一ノ瀬は頭が悪い訳ではない。ただ、ちっとも勉強する気がないので、慶應だろうと何処だろうと、入り直すのは無理だろうと僕は言った。

 坂垣はひとつ頷いて、また車を走らせた。戻るのかいと聞いても、また知らぬ顔である。


「藤堂さんが文学に興味がおありだと聞いて――倉橋先生の書生にできぬかと話しているのを聞きました」

 書生。急になんの話だろう。倉橋というのは倉橋達弥かいと身を乗り出す。

 『まほろば』という詩集は明治の終わりに発行されて、当時二十余歳だか幾つかで文壇に現れた、若き天才が書いたものであった。

 輝かしい経歴の詩人と、物書き志望の一学生である僕に、とりあえずのところ接点はない。


「何故」
「さあ、私に聞かれても」
「書生になぞなれるわけがない。年を考えろ」
「私に言われても」
「――じゃあ話すな」


 すみません、と坂垣の声に重なり、きるきると車体が軋んだ。僕は焦って、此処は違う道だと椅子の背を叩く。

 坂垣は応えず、そのまま勢いをつけて知らぬ道を行った。

 人けのない通りから、民家のある道、隣町の商店街、坂道を下ってかなりの距離を車が走る。

 流石に不安が勝った。


「おい」
「戻りませんので。本を売る気はないんですよ。金を貸すと言っても聞かない幼友達のせいで、おそらくまた」
「書物は要らないよ!あいつ何を」


 してるんだ、と開けた口を閉じる。

 薄暗く狭い道をガタガタと走り、行き止まるかと思われた道の先に活動写真館があった。


「ご存知で?」


 いいや、と首を振った。
 坂垣は入った時と同じくらい静かに外へ出て、扉を開けた。

 後になってフロイト博士の催眠魔術かと笑い飛ばしたほど、そのときの感覚がない。

 角地の建物に凄い賑わいである。役者の立て看板も絵は古く、埃と日にやられて白みかけているのだが。

 溢れ出んばかりに、人がたかっていたのだ。

 無言で先を行くので、待て、金が無いと後を追った。坂垣は一ノ瀬より頭ひとつ分は小さいが、僕の脚では人波を分けていけない。

 後に残した自動車の安否が気にかかり、一度だけ振り返ると、当然その姿をすぐに見失ってしまった。


「坂垣!」


 ハイと返事があって、すぐ傍らに立っている。気持ちの悪い男だ。気配を消すのに長けているのか、僕が単に鈍いのか。

 手に整理切符を持っていて、取り上げると有り得ない数字が書いてある。


「こ、こんな場所で?」
「高田稔が出ています」
「だから何だ。スクリィン越しに男を見て喜ぶと思うか!余所へ行こう、高すぎる」
「いいえ、そういう訳には」


 此処に坊がいますので、と言った。

 坂垣は僕の掌をさっと取り上げ、子供の手を引くようにして人を掻き分けた。

 中へ進むと息が出来ない。通って間もない地下鉄に初めて乗った日を思い出す。
 違いは石炭の代わりに、人の汗の臭いでむせ返るということだ。

 誰かの背中と、踏まれる足しか意識できなかった。暗闇に申し訳程度の布が張られ、予想以上にさびれた活動である。

 しかし広さは充分だった。

 椅子に座った人間は殆どいない。立ち見なら未だしも人の上に乗るような形で、観客がだまになっているのが見えた。


「坂垣、こんな中でわかるもんか。外で待とう」
「しぃ」
「あいつ僕の本をどうしたんだ」
「要らないのでしょう」
「しぃ。聞こえん。金をドブに棄てる気かい」


 活動弁士の声が野次に混じって聞き取れなかった。

 誰かが喧嘩を始め、御蔭で内容がわからない。途中出入りの客も多く、もはや雑然とした中で、前の方はともかく後ろは酷い有り様だった。


「何故一円もするんだ、金を返せ!」


 やいのやいのと騒ぎ立て、煩い中でも画面は回っていた。

 矢ッ張りなと思う。若い己が朝から晩まで働き月八円だった。

 坂垣が一ノ瀬のお屋敷から幾ら給金を貰っているか知らないが、ぽんと出すには庶民には高すぎる。

 そのうえ内容がこれでは。黒淵を鼻に押し上げ、モノクロのスクリィンを睨んだが、途切れ途切れで役者の顔も判然としない。

 弁士が口ずさむ解説も巧みではあるが、些か若いのか作ったようなだみ声の重みが足りなかった。

 どんな奴だと背伸びをするが、前が邪魔で見えない。

 坂垣に見えるかと尋ねると、その声すら騒音に弾け飛んだ。出ようとする観客と入ろうとする観客に押され、完全に身動きが取れなくなる。

 すると坂垣が一声、


 黙れ。


 と怒鳴った。

 その一瞬シィンと空気を打って、隙をついてか画面の切り替えに間に合ったのか、ヴァイオリンの音色が聴こえた。

 興に乗り、一弦二弦と増えて行き、暑かった館内に風が差し込む。

 弦楽器で可能なぎりぎりまでの音階が響き、ちらりと見えた画面では、男女の役者同士の場面に溶け込んだ。

 肝心の所は映らない。
 欧州のシネマでさえ、五秒以上の接吻は規制対象となるようだ。気がつくと静かに聴き入っている。

 活動弁士が楽器をやるのは珍しいことではない。無声の台詞活字は見えにくく、何もない退屈な場面では間がもたないのだ。

 素人の腕では無かった。



 人混みなど薙ぎ倒すような

 粗削りだが狂おしく切れそうな

 強い音色で魅了して現実から引きはがすような



 ふと辞めて画面が切り替わったと同時に、歓声で耳が壊れるかと思った。

 ヴァイオリンを降ろすのが誰かの腕の隙間に見え、続けて弁士の声が館内に響き渡る。

 僕は割れんばかりに手を打った揚句、顔を一目見ようと坂垣の肩を肘で押し上げた。

 上映されているシネマの結末を高らかに叫んだ活動弁士は、鼻眼鏡に代わり黒眼鏡をかけていたが、





 一ノ瀬その人であった。







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