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月並みのラブソング番外10




 時計の針が遅かった。





 待つのは疲れたとあれほど言ったにも関わらず、男はなかなか帰って来ない。過去の出来事をあれこれ思い出しちまう。

 もういい加減勘弁してくれとソファに突っ伏して叫んだ。

 どうした、と低い声が尋ねた。反射的に顔を上げる。


「あ……?お帰り」
「猫かと思った」
「ネコですよ。悪いか」
「悪くない。ただ世話がやけるのが少しな」


 俺は絶句した。遠回しに嫌いだと言われてるみたいじゃないか。いや、生理的に受けつけないだけで、好意はあるが近寄れないという意味にも――――


「今度はなんだ。急に起き上がって」
「むなしくなったんで今日は帰ります」
「そうか。こっちも残業で疲れたから明日の方がいい」


 ねめつけると、笑いを堪えて涙目になっている男の顔が目に映った。



 俺にしか見せない顔。

 俺だけが知っているこの人の表情。



 ねだったわけではないのに唇が降りてきて、指先が頬を優しくなぞる。俗っぽい言葉で表現するしかないほど、興奮した。

 舌を絡めると離れる。


「……あ。ハァ。なんで」
「風呂だ」
「もう、勝手に入りました」
「一緒には?」


 今日はいい、と息を荒げた。年甲斐もなく盛っている自覚があって、酷く不安だった。

 最後までしてくれるんじゃないのか?またごまかされて俺だけたくさん感じてイかれて終わりか?

 股間を探った手を払いのけ、ソファで小さくなる。はみ出した脚を撫でられ、ふざけてフギャッと言った。


「尻尾があるのか確かめないと」
「俺が何時間待ったと思って……」
「玄関で裸エプロンか、薔薇風呂でシャンプーハットが基本じゃないのか」
「後のはなんです?まさか腰につけろとか言わないよな」


 手を出せと言われ、背を向けたまま右手を出した。まあこっちでもいいかと言う声。



 冷たい感触に手を引くと、薬指に指輪があった。



 意味がわからず、見上げるといつの間にか外されていた眼鏡なしのまま顔を寄せる。

 自然に目をつぶった。微かに触れる程度だった。なんの儀式かようやく思い出した。

 慌てふためいてソファを転げ落ちそうになる。支えてくれた端正な顔が、すぐ傍にあった。


「新婚夫婦の鉄則だ。要るものだけ残して、ベッドで待っていなさい」
「織田切さ……」
「先に寝ていたら知らないぞ」


 頬が熱くなった。隠そうと下を向いて、見上げるともういない。

 あれだけ意を決して迫ったのに、あの日は事を果たせなかった。

 連日の仕事疲れで確かに記憶がない。二晩泊まり込んだが抱き着いて寝るだけで、男の連休を待つことにした。

 取り寄せるのにどれくらいかかったのだろう。OtoHと内側に掘ってあった。名前じゃないのかとがっかりしかけて、思い直す。





 もう誰のものにもならない。





 彼の娘と結婚していたら、俺は織田切姓になっていたのだ。

 将来を誓っても、自分の養子にする意図はないことを示していた。

 寝室に一人で向かい、明かりをつけずに着ている服を全て脱いだ。

 キングサイズのベッドに横たわる。俺の身長に合わせて、男が買ってくれたものだ。二人で眠ってもかなり余裕だった。

 ちょっとでも自分が可愛いらしい抱きまくらに見えないかと、小さく脚を折り畳もうとして……ふと悲しくなった。

 無駄な足掻きは止そう。気色悪いのもわかってる。

 冷えた足に熱い身体が当たるまで、ずいぶん遠回りをしたように感じた。

 ベッドには入ってくるが、いつものように身体を重ねなかった。覗き込まれる気配がする。


「寝たのか」
「――――」
「こら。起きなさい」


 ちゃんと口に出さないとわからない、と呟いた。


「なんだ。仕返しか?」
「答えてほしい」


 当たっている部分に、まだ反応はない。俺はさっきの触れるだけのキスでこんなに熱くなって、自分の体を持て余しているというのに。

 裸で抱き合っていても、まだ遠い。あの日から一歩だって進んでない気がする。


 ――――あんた、人にはごちゃごちゃ言う癖に、言葉が足りなすぎる。


 言葉をねだるなんて、女のようだ。俺は女にさえしてもらっていないのに。


「君も言ったことはないだろう」
「好きだ。愛してます」
「そういう言葉でなく」
「……そういう言葉が欲しいんだ!」


 起き上がった。どこにいるのか輪郭すら見えない。手探りで体を捜す。手を握りしめた。

 睦言でよかった。情念に押し流されて、戯れに叫ぶだけでも。我を忘れて求められていると感じたことはない。

 同性だから、と何度も思ってきた。違う。不思議の国に来た二人を見てわかった。本当に人を信頼するのが、どういうことなのか。

 あの二人にセックスはいらない。愛情や信頼を確かめるために抱き合う必要がない。俺は?それしか方法がなかった。

 体を求めても、心を求めたことはない。


「俺のこと、本当はどう思ってるんですか」


 答えはない。握り返してもこない。


「どうして俺の相手をしてくれるんですか」


 股間を探ろうとした手を取られる。どちらの手にも指輪の感触はなかった。

 離れた指が髪を漉くのを、優しくしては嫌だと振りほどいた。いつもそうだ。どんなに淫乱な真似をしても、貪欲に貪っても、結局は壊れ物に触るようにして俺を扱う。


「なにか言ってくれ……っ」


 俯いて、涙を出すのを堪えた。一度も泣かないとひそかに決めていたのに、あの日は違った。冗談みたいな言葉が、俺の唯一の支えを壊した。もっと言葉を求めたくなった。欲してしまった。

 なにもいらないと言えたらいい。そばにいれたらそれでいい時もあった。もう遅い。もっと欲しい。すべて、すべてが。


「織田切さん。あんたのことを俺はずっと」


 握っていた手を離した途端だった。

 手を掴まれ、首を引き寄せられ、頭を胸元に押し付けられる。頬に冷たいものが当たった。チャリ、と音が聞こえる。

 離れると鎖の先に指輪が見えたが、すぐに顎を上向けられた。


「なんて顔をしてるんだ――――君は」
「え……」


 何も見えない。目を懲らして細めると、ぶつかるように唇を奪われた。自らさらってはくれなかった舌を絡めとられ、息もできないほど吸い込まれる。

 恍惚として受け入れ、呼吸に負担がないよう間をあけようとするのに、首が変な具合に曲がって距離を取れなかった。

 暗闇の中で見えた目が俺を捕らえて囁いた。





 ずっと好きだった、と。







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