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月並みのラブソング番外8




 殺す気か、離せと言われた。





 掴んだままのネクタイが絞まり、声が掠れている。俺は慌てて手を挙げた。

 喉を押さえて咳をする。ネクタイを引っ張って緩め、眼鏡を外した。片手を靴箱の上に乗せ、前のめりになる。

 あまりに長いので背中を触ろうとすると、気持ち悪いと手で払われた。当然の報いだ。わかってはいたが、辛かった。目が血走っている。


「み、ずだ」
「はい――――」
「はやく。水」


 意味に気づいて、すぐ取りに行った。戻ると靴箱にほとんどしがみつくようにして、何かを手の平に持っている。

 一度大きく深呼吸した。深く吐いて、手を構える。シュッという音に聞き覚えがあった。


「織田切さ」


 人さし指を立て、心配するなというように目を合わせた。何もできない。もう一度咳をした。

 詰まるような音だった。顔が赤黒く染まり、汗が噴き出している。息をしかけてまた止まった。


 ――――喘息?


 吸えない、吐けないという感じだった。ひと呼吸おいて、また手を当てる。小さすぎて見えないが、吸入器だろう。受け取った水も飲めずに、靴箱に置いた。

 救急車を呼ぶべきか迷った。猫が足元へ擦り寄ろうとする。駄目だと思って抱きあげた。


「えさ。餌を」
「119は……」
「いい、から。戸棚の」


 わかりましたと猫を連れてキッチンに戻った。廊下以外の明かりをいくつかつける。皿はすぐ見つけたが、どの棚かわからない。

 ようやく猫の前に出せたときには、上着を脱いでソファに座っていた。外したネクタイがクシャクシャだ。

 顔色は白く戻っていた。近づくタイミングがわからない。眼鏡を外した顔は盗み見たことがある。髪が乱れている姿は、初めて見た。


「ありがとう」
「どのくらいあげたらいいか、わからなくて。多いかもしれません」
「猫じゃない。座りなさい」


 帰りますと言うつもりだった。もう来ませんと。意に反して足が動く。向かいに座ろうとすると、身を乗り出した彼に手を引かれた。


「こっちだ」


 隣のソファは区切られてはいるが、左に寄り掛かっているため自動車以上に近い。迷っていると強引な力で座らされた。

 咳は治まっているが、荒い息と気道を塞ぐ音がする。ヒューヒューと、どこかのすき間風か人の泣くような音がした。隣の人間からしてると一瞬わからなかった。


「猫なんて駄目だ」


 思わず言っていた。煙草もだ。なぜ渡してしまったのか後悔した。あんな密室で。


「喉のアレルギーが原因だ。検査を受けたが、猫も煙草も異常はない」
「駄目です」
「…………こっちを見てくれないか」


 右腕に指が置かれた。ゆっくり顔を上げる。怪我はないかと問われて、猫のことだと思い出した。

 無言で首を振ったが、後で後ろを見せなさいと言われた。


「言いたいことを我慢するとこうなる。最近発症した。華織も昔は」
「え――――」
「小児喘息だ。今は問題ない。今夜はその話をするつもりだったんだが」


 カッと顔が赤くなる。自分のことしか考えていなかった。歌姫に持病があったこと自体知らなかった。若いころには何も知らずに結婚を申し込んだのだ。



 ――――フラれて当然だった。親子どちらにもだ。



 立ち上がりかけたが、押さえられる。


「また咳こませたいのか?」
「すみません。ですが、俺は」
「帰りたいならネクタイにアイロンをかけていけ。それから、人の嗜好品についてとやかく言うな」
「…………」
「煙草の煙が多いところに長時間いられないだけだ。だから娘の歌も聴きに行けない」


 ああ、と息をついた。いろんなことが理解できる。猫がさっと俺の膝に乗った。その頭を彼の手が撫でる。


「華織については本人のことだ。体は丈夫になっているし、恐らく心配はいらないが……親心として、何かあったら経営者の君に頼みたい」
「――――はい。必ず」
「君でなければ頼めなかった。解雇されても文句は言えないからな。しかし自分では言わないだろうと思って」


 聞かないほうがいいですかと言うと、もう知ってるさと猫に向かって微笑んだ。

 素顔のまま向けられると、胸が裂けるように痛んだ。





「さあ。私の話はおしまいだ。君が話したかったことを聞こう」







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