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月並みのラブソング番外2


 十年近く前、俺は織田切誠司の直属の部下だった。



 その頃はまだ自分の性癖に核心が持てず、実家暮らしの普通の会社員で。その年まで家を離れられずにいたのは理由があり、いつその現実から逃れられるかと息を潜めて生きていたのだ。

 昼の世界にしか居場所がなく、それが普通だと毎日自分に言い聞かせていた。

 今となっては笑い話だが、目つきが悪いことを酷く気にして、愛想のよい笑い方を鏡の前で練習したこともある。

 人あしらいが上手いらしいと営業課に回されそうになり、唇の片方だけを持ち上げる、誰かの皮肉な笑みの真似をした。

 飲み会ですらネクタイを緩めたことはない。髪も染めたことがなかった。ナメられたくないので伊達の眼鏡をかけた。

 そのうち陰でポスト織田切と呼ばれるようになった。



 期待の新人としてただ黙々と周囲に溶け込む努力をして二年。



 娘を紹介しようと言われ、つき合い、デートを重ね、清い交際の後にときどき食事に招かれ。

 籍を入れるつもりはあるかと聞かれた。言葉を濁すと、急いてすまなかったと肩を叩く。

 挨拶をしてくるからと二階へ上がり、暇を告げようと半開きのドアの前に立った。

 口論をしている光景が目に映る。平和な中流階級の家庭でも、喧嘩はするのだと足を留めた。

 本当に仕事なの。毎日でしょう。誰かいい人が外にいるんでしょう。いつも穏やかに微笑んでいた女性の顔が歪み、隠すようにして男が抱き寄せた。そんな者はいない。君の思い込みだ。

 覗いていたドアが音を立てずにわずかに閉められる。恋人が口に指を立て、俺を見つめていた。


「行きましょう」


 静かに囁き、そっと肩に柔らかな手が触れる。その手に引っ張られながら家を後にした。

 恋人は学生だったが免許を持っていて、黙りこんでいる俺を助手席に乗せた。その頃から彼女は――――俺にはもったいないくらいの美人だった。


「結婚してくれませんか」


 車が発車するより前に言った。彼女は首を傾げて、エンジンをかけた。

 俺はリフォームしたてのかなり立派な一戸建てを見上げて、夫婦の寝室から明かりが消えたのを確かめた。

 綺麗な声がはっきりと言った。


「卒業したらってことですか?何年待つ気なの?」
「君は若い。すぐに返事を望んでは……」
「夢があるの。大学は辞めるかもしれない」


 俺は悩み抜いて、彼女と目を合わせた。

 女王さま、もし結婚してくれたら僕の将来性はバッチリだし、貴女が思ってる以上に良い家の出だから子種も上質ですよ、若いし真面目だしお買い得ですよとセールスマンのような口説き文句を連発した。

 彼女は俺を気の毒そうに見て、ハンドルに手をかけ微笑んだ。


「あのね、子猫ちゃん。女を甘くみたら怖いわよ」
「――――」
「送りますね」


 もう一度見上げると、別の部屋に明かりがついていた。目が離せず、その部屋だけを凝視する。

 カーテンが開き、上司がネクタイを解きながら手を挙げたので、わけもわからず俺もそうした。


「ぶはっ。はははは」


 恋人は俺を見てなぜか声をあげて笑い、「ずいぶん前から別室なの」と言って車を走らせた。



 ラジオからジャズのナンバーが流れていた。



 彼女は大学を辞めて歌のレッスンを本格的に始めると言った。三歳からやっているが、モノになるとは到底思えない。ただ試したいのと真っ直ぐ前を見ていた。

 煙草をやってもいいかと聞いた。吸うのね、知らなかったと彼女は頷いた。

 擦ったジッポー・ライターが就職祝いに父親から貰った物だと気づき、つい眉をしかめてしまう。吸い始めてすぐやめた。未成年の前だから。

 実家の位置を教えながら、震える指先で眼鏡を押し上げた。造りの馬鹿でかい旧家を示すと車を止めて、彼女が鋭く口笛を吹く。


「それは、どうやって」
「何が?」
「――――口笛だよ」
「真似っこが上手なんでしょう。パパが言ってた。口をすぼめて?」


 言われた通りにすると、ネクタイをぐいと引っ張られた。ちゅっと軽くキスをされて、「さようならよ」と念を押される。


「それが……返事かい」


 彼女は助手席の扉を開けて、俺を車から追い出した。


「好きなものがあるの。貴方よりもよ――――両方選べない」


 ギクリと身を縮めた隙に、扉は閉まった。窓を開けて彼女が首を振った。

 綺麗な高い歌声が響き、それがさっき聴いた曲だと気づく前に、車は走り去った。





 見上げた月が、俺を見て滑稽な顔で笑っていた。







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