【bookstore】




 京極堂はため息をついて本を閉じた。食事には手をつけていない。

「だいたい『明日から本気出す』は君のためにあるような言葉だろう。こちらの先生は朝から科学薬品を弄ったり日中資料集めに精を出したり夜毎音楽に親しんだりで、来たるべき仕事のために日常やることはやっておられるのだ。それが君のほうときたらなんだい。うちに来て横になって千鶴子の料理を食べて猫とたわむれて『ではまた明日』。それで予告通り来るならまだしも来た試しはないんだから。まったく呆れるよ」

「その調子だ中禅寺君」ホームズが言った。「私の隣でライスをむさぼり食ってハッとしている開業医についても任せよう。度重なる違法手術や患者や看護師に手を出した数をかぞえあげれば、およそ君の敵ではない」

 京極堂は探偵の言い分を訊いたとたんに声の響きをおとした。

「ワトスン博士とて、よしんば只の食いしん坊だとしてもだ。文筆家としての君の知名度や名声には遠く及ばないプロフェッショナルな地位を確立しているんだぜ。もちろん僕の助手、ましてや榎木津の助手などというおよそあり得もしない『小説家・関口巽』の存在意義と違い、明確にそこにあるべき理由を持って生きて居られるのだ。ライスのお代わりをどうぞ、博士」

 私は棒のような男二人を見比べて、霞を食って生活しているとしか思えない老人に視線を戻した。隣の紳士は対照的に肥えている。同じ食生活でなぜここまで差がつくのか。

 机を滑った器を目にも止まらぬ早さですくい、すでに箸の使い方を習得していたドクター・ワトスンは手を合わせた。

「いただきます」

「手を合わせるのは最初の一度でいい。君ははるばる海を渡って我々が何をしにきたのか、目的を把握できているのか」

 ワトスンはホームズを見たが、にこりともしなかった。彼の手記を読むとなぜか博士本人は穏やかに微笑んでいる風に思えるのだが、現実は違う。

 忌々しげな様子をよく見ようと身を乗り出した私の脇を、京極堂が肘で小突いた。

「もちろんだ、ホームズ君。『素晴らしいよ』『完璧だよ』『僕には全くわからなかったよ』。基本の答えはこれだけだ。つまり今の質問には三つめで答えればいい」

「さすがだワトスン君。今日は冴えているから内心困っていた。そこのおしゃべりな先生にたっぷり洗脳してもらいたまえ」

 中禅寺はこれもどうぞ、とワトスンに器を差し出した。端から見れば餌付けに近い。ホームズは寄ってきた猫を膝に乗せて、膳からこっそり餌をやっている。おこぼれに喜んで猫もなついている。

 私はひどく羨ましくなった。猫や中禅寺のほうがだ。

 そして私は一つ、ため息を吐いた。




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