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まだ一度も経験したことがないのに、いつかどこかで経験したように感じることがある。
ワトソンはデジャビュというものの存在は知らなかったが、山の頂を目指して登山杖を使うと、ここは初めて来た場所ではないという気がした。
「ホームズ」即席でできた相棒は返事をしなかった。「岩の暗号はドイルが書いたものではないというなら、いったい誰が」
「あれはメアリーだな。君の奥さんではないほうの。間違いない」
「……」
「そんな顔をしないでくれたまえ、ワトソン。私が見落とすことまで計算に入れて、股間をごそごそとやりだした隙に道端の石灰を拾ったのだと推測できる。あの娘も弟を悲しませたくなかったのだろう」
「君たちも当てずっぽうでドイル君が発見できるとは考えていなかったのか。私だけが一杯食わされていたわけだ」ワトソンはため息吐いた。「腹が空いた。日が暮れる前に君の用事を済ませてしまわなければ」
「デニスは連れ去られたのだ」
「……この期に及んで、まだ行方不明者を出す気なのかね。君の見えない敵が誰かは知らないが、たった一人の男の妄言に付き合わされてきた私の身にもなって欲しい」
ホームズはうなずいた。「君の世界の常識ではそうだ。しかし私はアーサーが必死に映しとろうとしてきた空想の産物より、更に不確かなのだよ。誰も心のなかをじっと見つめない限り、自分とは別の存在の創造などできはしないだろう。ほんの気まぐれの一瞬だけ利用されて、打ち捨てられた者たちの叫び声が私には聞こえるのだ」
「キングズリーと同じような物のいいかたはよしてくれ。この先に何が待ち受けているというのだ」
滝の轟きが地表を揺らし始め、飛沫が霧状になって顔を濡らすほど近くまで寄ると、ワトソンはホームズの言葉を頭のなかで反芻するしかなくなった。
崖の上には思った以上の人物が立ち並んでおり、登ってくる自分たちを見つめて人影がゆらゆらとしている。
「彼らは、いったい――」
ホームズはワトソンの横顔を見つめ、言い聞かせるようにささやいた。「アーサーが物語のなかで、地獄行きにした人間たちだ」
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