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 ワトソンの妻、メアリーは鏡台の前でため息をついていた。手には自分の手編みのマフラーがある。

「ジェームズ……」

 メアリーはワトソンの愛称をつぶやいた。ジョン、という名前のどこをどうしたらジェームズになるのかわからないが、メアリーは彼を特別な名前で呼びたかったのだ。

 アメリカで『ジャック』という名前が頻繁に使われるように、『ジョン』は明らかに個人名としては役不足だった。妻として彼女はワトソンに違う名前をつけた。そのこと自体に深い意味はなかった。

「やっぱり根に持っているのね。他の人は彼をジェームズなんて呼ばないんですもの」

 メアリーは鏡に映る自分を見つめた。歳をとって少しばかり体重が増え、従順なばかりの若い時代とは違って口うるさくもなった。

 雇いの家政婦は若くてかわいらしかった。夫婦そろって言い聞かせると、夫ではなく自分に泣きついてきた。二人が彼女にとっていかに理想の夫婦であったかを切々と語った。決して仲を引き裂こうとしたのではなく、恋に恋するあまりの出来心だったのだと。優しくされるあまり、気持ちが傾いてしまったのだと。

 メアリーにはよく理解できた。ワトソンにはそういう面があるのだ。

「全部あの人が悪いのだわ。思わせぶりな態度ばかりとるのだから。女性にもそう、男性にもそう」ぶつぶつといいながら、呼び鈴の音に立ち上がった。「私が数十年前、病気で臥せったとき……ずっと献身的に看病してくれたことには感謝してる。だけど、もう少し」

 扉を叩く音が激しくなり、メアリーは大声で返事を返した。「はいはいはい、どちらさま! まあ、ジョンではないの。それともジェームズだったかしら。新しく知り合った方との旅行は楽しかった?」

 夫は息を切らして、大きく見開いた目でメアリーを見つめていた。彼女はその尋常ではない様子に眉をひそめた。

「どうかなさったの。幽霊でも見たような顔よ――」

 ワトソンはメアリーを抱きしめた。

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