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 列車の中ではデニスをどちらが抱くかで揉めた。

 ホームズは赤ん坊の世話を手際よく行ったが、天才とはいえその実態はただの赤ん坊である。座席に固定するのがなかなか難儀だった。デニスは馬鹿な大人二人に焦れて、ホームズのパイプとワトソンの杖でもって自分の座席をつくった。

 ホームズとワトソンは顔を見合わせた。これで彼らを象徴する小道具まで退場してしまったのだ。アイデンティティに関わる、重要なことだった。

「ぼく、おしっこ行きたい」

 もちろん列車が動き出してからである。赤ん坊に言い聞かせても駄目だ。

 そもそも子供というのは、七歳までは夢のなかにいるような存在である、と学者が証明している。叱って言い聞かせようとする若い新米のお母さんには、このことを肝に銘じていただきたい。

 彼らはデニスではない。三歩あるけば昨日のことはおろか、目の前の欲望以外はすべて吹き飛ぶからだ。

 しかし気の毒なワトソンには天の声は聞こえず、彼は鬼になった。

「あのね、ここでは尿瓶しか使えないよ」ワトソンはため息を吐いた。「おむつを変えてあげるから、そこにしなさい」

「いやっ。おむつは昨日卒業したの!」

 そうはいうが尻にはちゃんと装着してある。顔を真っ赤にさせながら、デニスはもじもじと隣に座るホームズを見上げた。

「……シャーロックも使ってるの?」

 ホームズは鼻で笑った。「私はトイレには行かない。初歩的だよ。かなり初歩的なことだよ。まさか私が、尿瓶など!」

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