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「ワトソン君」
もうひとりのワトソンが顔をあげた。デニスが原稿を注射器に変えようとするのを押し止めながら、ワトソンはいった。
「君は、どうして――」
「ワトソン博士」
部屋をノックしたキングズリーが遮った。姉は学業に戻ったが、彼はまだ屋敷にとどまっていた。
「休憩しませんか。お疲れでしょう」
「いや、私は」
真剣な眼差しにその後の言葉を飲み込み、ワトソンはペンを置いた。
もうひとりのワトソンは執筆に戻った。
「ぼくも!」デニスがいった。
「ぼうや。インクがたりない。パパを手伝ってくれないか」
父親が髭をモゴモゴとさせると、デニスの関心はそちらに移った。
「ねぇ、ぼく役に立ってる?」
「とっても役に立ってるとも」
「科学者よりも?」
「科学者よりも!」
デニスはにっこりとした。「パパ、パパがいない間に分解した革靴のことだけど――」
ワトソンは慌てて飛び出した部屋の扉を閉めた。嘆きの声は廊下にまで響いた。
キングズリーは苦笑で応えた。
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