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もっと早くに終わっていたのだ、とモリアーティはいった。
ずっと以前に終わっていたのだ。存在する本の中身が何であれ、語られるより前にすべての物語の扉は閉じているのだ。
本を開いて閉じるまでの時間が、その場にいないはずの人間が生きられる唯一の時間であった。
「彼は鎖の話をしたかね。ワトソン君」ホームズが――本物のほうだ――ワトソンの耳にささやいた。いつの間にか傍らにいる。「鎖というものはね。一番弱い環の強さで全体が決まるのだ。そしてこの場合の一番弱い鎖というのは……」
ワトソンは残りを聞き漏らした。ドイルが振り返って目を丸くしたからだ。
「ワトソン博士!」
え、と口にしてワトソンは手元を見た。本の発する光に気づかれたかと思ったのだ。しかし本のほうは何ともなかった。ワトソンの正面が急に翳った。
架空の犯罪者たちがわらわらとワトソンを取り囲んでいる。口々にワトソン、そうだワトソンだ! と歓喜の笑みが浮かんだ。
「一番弱い環――」
ワトソンがホームズを見ると、彼は悲しそうに呟いた。
「もちろん君のことだよ。僕が鍵だとあの人はいったがね。ドイルが無意識に創造してきた空気のような君の存在だって、同じように危険なのだ」
落とさんばかりにひしめき合う人々の爛々と輝いた目が、ワトソンの恐怖心を呼び起こした。
「ド。ドイル君。アーサー。助けてくれ!」
「ワトソン」とドイルが口にして「ジェームズ!」と言い替え首をひねった。
禁句は天才の息子がいってしまった。
「あのねパパ。ワトソン博士の名前はね――ジョンなの。ジョン・ワトソン」
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