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「小麦の注文を忘れていたから、留守を頼む」

 ホームズはワトスンの部屋に向かって声をかけた。連なる原稿が天井に張り巡らされた紐にかかっており、本人がどこにいるのか見えない。

「待ってくれ。私も……」

「インクが乾いてからにしたほうがいい。真っ黒になりたくなければ」

 ホームズは目の前に下がった一枚の紙を引っ張った。曲がった腰では高い位置のものをとるのは難しい。医者のワトスンが考案したマッサージとは名ばかりの整体――とてつもなく痛い――を試してはいるのだが、限界があった。

「読めるかい。眼鏡を貸そうか」

「手が震えるのか。少し字が――書痙かね」

「そんなに大したものではない。心配しすぎだ。投げるぞ」

 眼鏡を受けとってかける。遠視のせいだけではなかった。文字がかなり揺れている。

「代筆を頼みたいようなら、人を雇うが」

「全く書けなくなったら考えよう。どうせ昔と違って、どこに発表する当てもないのだ」

「……」

「僕が気にすると思うのかね」肩をすくめたのが空気の動きでわかった。「君の女王蜂に関する論文の原稿料だけを頼りにしているよ」

 眼鏡と原稿を扉脇の机に置き、帽子を手に取る。物書きの老人は留守番となった。ホームズは腰を叩きながら杖を忘れず持ち歩き、外へ出た。

 丘を越える手前で荷馬車を拾えたのは運がよい。いつぞやの野犬が乗っていた。人の手に慣れるものではないからと手放すか射殺するかで揉めたのだが、二軒隣家の加治屋のジョーンズが引き取ると言ったのだ。

「元気でよかった」ホームズは犬に話しかけた。「エミール」

 馬を操りながら加治屋の息子が笑った。「手懐けるのに苦労しました。肉が好物のようで」

「大概の犬はそうだ。大概の」ホームズはいいさしてやめた。狼の血を引いている。いいよどんだ気配を察して、ジョーンズが笑った。

「心得ています。まだ家族全員、両手両足揃ってる。大丈夫ですよ」

「くれぐれも無理はしないでくれ」

「一度なついちまえば、その辺の犬と変わらない」

「犬のほうが狂暴だ。時にはね」

 ホームズの言葉に親子は顔を見合せた。著名な作品のどこが脚色でどこまでが真実なのか、彼らにはわからない。

 老人は襟をかき合わした。エミールは扱いが不当だと主張するように尾っぽを振った。ジョーンズ家の番犬はとりあえずのところ、噛みつく心配はなさそうだった。

 目的地で来月の穀物を注文し、親子には店を隔てた先にある酒場でビールを奢った。可愛らしい歌い手が客の拍手に合わせて踊っている。子供を見世物にするなんてという視線もあったが、主人は嬉しそうに娘の晴れ舞台を用意してチップを受け取った。

「おじいさん」ホームズが膝を示すと、少女は慣れた手つきで彼の上によじのぼった。「今日はちょっと難しいわよ」

 ホームズは少女に顔を近づけると、クンクンと匂いを嗅いだ。

「そうかね? パン。ホットミルク。エッグマフィン――あとは、そうだな。お母さんに黙って引き出しに隠していたクルミを食べたが、半分は虫にやられていてとても苦かったはずだ」

 少女は機嫌を損ねてプイと膝を降りてしまった。客の拍手と裏腹に、ホームズの眉根は深く垂れさがった。そうすると老人はいっそう気難しい顔つきになり、鼻の尖りも酷く目立つように見えた。

「お嬢ちゃん」ホームズは少女を呼び戻した。耳の傍に片手をかざし、魔法のようにクルミを出す。「お詫びだ。これをあげよう。気に入れば、他にもあるよ」

「負けたのに施しは要らないわ。レディだもの」少女の手はクルミに伸びた。「でも貰ってあげる。ホームズさん。私の名前はアイリーンよ。何度言っても覚えてくれないのね!」

 老人は答えなかった。玩具のクルミ割り人形を主人が出すと、少女は夢中でクルミを割った。飛び出す歓声。小さな色とりどりの飴が詰まっている――。

 夜通しかかって秘密の贈り物を作ったことは内緒にしたまま店を後にして、新しくできた文具店で新しいインクを買った。ひとつはワトスン。もうひとつは自分。

 女王蜂に関する記録ではない。心踊る事件についての物語でもない。日常を切り取るちょっとした会話を、書き留めておくためだ。







『ふたたびの愛情』



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