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 執筆途中の原稿をほうり出し、ドイルは言った。

「紅茶を淹れてくれ」

「自分でやりたまえ。僕は忙しい」

「小一時間、長椅子から一歩も動いてないのにか。筋肉が落ちるぞ」

「筋肉馬鹿」

「推理馬鹿」

「ワトスンは自分のついでに僕の分まで淹れてくれる。まあ三日に一度くらいは」

「ハドスン夫人は偉大だな。揃って不精者の男ふたりの面倒をみてきたわけか」

 ドイルはその日何度目かのため息をついた。

 二重生活に慣れるのはドイルのほうが早かった。中年期に差し掛かって以降は年中あちこちを飛び回っているからだろう。

 ホームズは月の約半分をワトスンのいる下宿で過ごした。どちらも互いの家族――ワトスンやハドスン夫人を他になんと呼べばいいのか思いつかない――に干渉することはなかった。

「ホームズ」

「紅茶のことなら頭の中の難問を解き終わってからだ」

「ただちょっと思ったことがあったのだが、後にするか」

 もったいぶった言い方をすると、ホームズも少し顔を傾けた。

「つまらない内容でないなら」

「つまらなくはない。例え話だが、私と久しぶりに会ったとして君はどうする」

 ホームズは元の姿勢にもどった。

「考えていた以上につまらない話だった。僕の脳みそ三十秒分を返せ」

「たとえば十年ぶりに会ったとして、どうする」

 実際に離れていたことがあるのだ。そのとき互いにあった感情は憎しみに近いものだったので、冷ややかな展開しかなかった。

 ホームズは神妙な面持ちで天井を見上げていた。

「いまなら、かい」

「いまなら、だ」

「殴るのはありかい」

「殴るのも、まぁよしとしよう」

 ドイルはやはり発想が同じだな、と考えた。

 そこで抱きついて口づけあって生きている感動を共有するのはワトスン博士に任せよう。口づけあってはいないにせよ、ホームズが生きてることを知ったワトスンは泣きじゃくったに違いないのだ。

 ひとり納得して原稿の束をまとめた。残りはベッドの上で書こう。

「泣きつく」

「そうだな。ワトスンなら君に泣きつくだろう……ん?」

「泣きついて僕を捨てるなと殴る」

「――」

「満足かね」

 考えつく限りパーフェクトな答えだった。ドイルはぴくりとも動こうとしない長い棒のような男を少し見直した。

 そしてワトスンにも同じ真似をするかと聞いて、この感情の行き着く場所をより完璧に表現するために肉体的アプローチを試してみるかと考えたのだが。

 誰であろうと泣きつく姿も、泣きつくという答えを聞くこともないという確信にほくそ笑んだ。

「珈琲がいいな」ホームズがいった。

「奉仕精神はないのか……」

「淹れてやってもいいが、あと五分待て」

「君の五分はどちらの意味でも信用ならん」

「妄想馬鹿」

「暗号馬鹿……」

 ホームズは少し微笑んだ。

「君はどうするのだ」

「――紅茶か? ミルクが欲しいな」

「いまなら、だ」

 答えるとなれば難しい質問だとドイルは悩んだ。口を開いて閉じる。また開いて閉じた。

「無言でにらみつける。なるほど君らしい」

「待てまて。まだ何も答えてない」

「にらみつけて殴りかかってくるのをワトスンか君の秘書が押しとどめ、決まり悪そうに拳を握ったところで僕が笑っているのに気づいてやっぱり殴るんだろう」

「……とんだ暴力亭主だと思っているわけだな。おとなしく殴られてくれるのか」

「不意打ちは卑怯きわまりないが、いつぞや折った歯の差し歯だって自作したのだ。数本までなら赦す」

「理由によるが、にやつく顔を見たら殴る衝動を抑えきれないだろうな」

「そこを抑えるのがワトスンだ。彼は温厚な紳士だ。君は温厚な紳士を装ってる血気盛んな無法者だ」

 沈黙は長くは続かなかった。ドイルは機嫌を損ねたわけではない証拠に答えた。

「では泣きついて殴る。捨てられたら飯のタネがなくなるからな。満足か」

「そういうことにしておいてやってもいい。しかし僕は不満足だ」

「泣きついて抱きついてキスでもしたら満足か」

「そこまで過剰なスキンシップはいらない」

 ホームズはその点に関してだけは割りきれず、潔癖な面を見せた。

 どちらも体の関係には興味が薄かったこともあるが、それだけが理由ではない。いずれにせよ男同士のそれは想像するだに面倒だ。

 しかしいざ一緒に住むのだとなれば、最初の夜に試そうとはした。ワトスンはホームズとダブルのベッドで寝たことがあるというのだ。二つの意味か一つの意味かは知らないが、同室の隣で横になるくらいならできるだろうとドイルは思っていた。

 実際は軍人にしては細身のワトスンとは同じにいかなかった。中年の大男がベッドを取り合う様はみじめだ。気まぐれに寝起きするホームズと共には眠れない。

 体のそこかしこに幾度か唇をつけたところで諦め、元のプラトニックなつき合いに落ち着いた。

 できないことは無理をしないに限る。どちらも積極性に欠けていた。特にホームズのほうは。

 考えてみれば挨拶のキスさえしたことがない。ドイルはホームズと自分が抱き合う想像さえ難しい事実に今さらながら気づいた。

「なってみないとわからないものだな。次に失踪するときはあらかじめ言ってくれ」

「次に僕がいらなくなる日は、永遠の別れだ。何も言わないでくれ」

 妙に真剣な響きを感じとりドイルは振り返ったが、声の主は珍しく音を出して笑った。

「冗談さ――ドイル君」







『ふたりの関係』



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