【事件簿】


『Crybaby(後編)』



 教授は尋問を終えると、私のいる部屋に入ってきた。「要領を得ないが、だいたいわかった。戻ろう、ドイル君」

「夕食には間に合うでしょう。部屋を別々に取っていますから、こんなに空けているともったいない」

 教授は言った。「宿屋は宿屋でも、さっきの宿屋だ。行くぞ」

 私は慌てて後をついていった。子供はすでに帰ったのか、廊下にはいなかった。彼から何を聞いたのだろう? 私は焦る気持ちを抑え、用意された辻馬車に飛び乗った。

 教授は浮浪児の少年から得た情報を話してくれた。私は内容に驚きを隠せなかったが、彼が指示した通りに動くと約束した。

 目的地につくと、私たちは宿屋の前で立ち止まった。目配せにうなずく。教授は料理店の路地、私は宿屋にそれぞれ入った。

「あれ。旦那、やっぱり今夜はお泊まりで?」

 宿屋の亭主はご機嫌だった。私と教授が彼の料理を褒め称えたからだろう。しかし私が彼に拳銃を向けると、真っ青になって両手を上げ、押し黙った。

「さっきの魚に、骨でも入っていたんですか。どうぞ銃口を下ろして」

「もうじき警察が来ます。事情を聞きますので、じっとしていてください」

 しかしそれは証拠が見つかればの話だ。

 ドイル君、あったぞ! という教授の言葉に、一瞬目を離した隙だった。わけのわからぬ怒声を発し、亭主が投げてきた何かにぶち当たって私は倒れた。フライパンか。教授ともみ合っている。拳銃はカウンターの下まで転がっている。逃げようとする亭主を捕まえようと教授が出した腕に噛みつき、亭主は彼の顔をなぐった。

 私は自分の頭に血がのぼる音を感じた。

「教授……!」

 ごんっと鈍い音が。誰かが振り上げた酒ビンで、宿屋の亭主は気絶した。その後ろにはコックと野次馬が列をなして中をのぞきこんでいる。

 料理店の主人は自分がしたことに呆然として、ビンの口部分の残りを見つめた。騒ぎを聞きつけた警官が彼からビン取り上げ、拘束しようとするのを、扉に寄りかかって口をぬぐっている教授が止めた。

「逮捕するのは、こっちの彼だ」

 私はほっとして、額から流れる汗をぬぐった。しかし手の甲はどうしたわけか真っ赤だ。警官に話をつけている教授が、私を振り返ってぎょっとした。

「ドイル。頭から血が」

 私は大丈夫ですと言おうとして失敗した。ろれつがまわらない。ふらふらと数歩あるけば、支えようと伸ばしてきた教授の腕の中に倒れた。

 よし、これでお姫さま抱っこ――と思ったが、意識を半ば失いかけている私に押し潰された教授は、私を後ろ抱きにして、手を貸してくれと叫んだ。

 現実は厳しいな……と私は教授の膝枕で我慢することにして、喧騒をよそにそのまま眠った。


****


 私が目覚めたのは病院だった。男の冒険とはこういうものだ。人の憎悪が怖くてやってられるか。教授は私の傍には居なかったが、半日ほどして様子を見に来てくれた。

 心配していないわけではない。彼はそういう柄ではないだけの話だ。私は増えていく独り言で自嘲ぎみに微笑んで、ことの顛末を聞いた。

「宿屋の亭主は料理店と同じ場所から仕入れをしていた。そのひとつが川魚で、私たちが食べたものだ。水はけの悪い路地裏が気になっていたため、食事をこちらで取った。魚料理だ。私は自分のズボンについた泥を照合してもらえるよう知り合いに頼んだ。当たりだったよ。その時点で亭主――ジョブスンという名前らしい――が犯人であることはわかったのだが、証拠は見つけられない上に、なぜ半死のマイク・ガードナーが博物館まで歩いたのか説明はできなかった」

 教授は紅茶を差し出した看護師に、ありがとうと言って続けた。

「宿屋と料理店は長年客を取り合っていた。というのもジョブスンは元コックで、地主から流行らない店をたたむか否かの選択を迫られ、宿屋を始めたからだ。あの一帯を牛耳っている組織が土地の値段を数倍に引き上げたせいで、金にも困っていた。彼は外国人客の貴重品を取り、出来心だったのか常習犯だったのかの裏づけはとれていないが、金に変えようとしていた」

 貴重品? と私は尋ねた。

「――十字架だ。フランツ・バラックは戦場から帰ると、神の存在を信じて宣教師じみたことをしていた。戦場でいったい何があったのかはわからんが、同じく神の崇拝者だったマイクと息があったのは想像できる」

 ここからは私の推測も交えてだが、と教授は言った。

「フランツはマイクの首から下げている十字架に気づき、礼がしたいといった。しかし彼らは歓楽街に行ったわけではない。マイクは物取りをしてしまったジョブスンの行動を理解し、赦しを乞うたのだろう。マイクは、礼はいいから彼の料理を食べてやってくれと頼んだ。しかし外国人のフランツには料理が口に合わなかった。無理をして食べているのに気づいたことと、自ら行った罪への恥からくる自責の念で逆上し、亭主は隙を見て川魚の入ったバケツにフランツの頭を突っ込んだ。マイクはその犯行を見てしまったため、同じく水を飲まされるはめに陥ったが、水の残りも少なくなっていたのか刺されたというわけだ。しかしフランツの遺体を始末しようとしている間に、マイクには逃げられてしまった。まだ息があったからだ」

 でもどうして助けを求めずに博物館まで歩いたのでしょう、と私は聞いた。教会で死にたかったならわかるが。

「マイクとジョブスンの関係は、いったい」

「ジョブスンの料理を美味しく思ってた唯一の人物、それがマイクだったのではないかと私は考えた。何日も食べていなかったと聞いたとき、疑問に思ったのだ。下働きの仕事を少年時代にやったことがあるが――もう昔の話だよ、ドイル君――食事も取らずにやれる仕事ではない。しかし、マイクの解剖時に胃の内容物も確かめたが、空だった。フランツの腹には消化しきれない魚の骨がまだ残っていたがね」

 教授は続けた。

「ひょっとするとマイクは以前から、ジョブスンの様子がおかしなことに気づいていたのかもしれない。途中で息を吹き返したマイクが、ジョブスンをかばって無関係の場所まで歩いたなら説明もつく」

 最後の晩餐なしに、ジョブスンをかばって歩いたのだ。私はあの痩せ細ったマイクが、かつて磔になったジーザス・クライストのごとく深夜のロンドンを徘徊する姿を思った。

 もみ合っているときに宿屋で落としたマイクの十字架の行方についても、浪漫があるのだ。浮浪児の少年――ウィギンズといったか――が、付近のごみ箱から漁ったそれを持っていたのだが、装飾の一部が取れていた。

 ジョブスンがバケツに残った水を捨てた際に路地裏に落ちたのだろう。ジョブスンは宝石には気づかず、死体となったフランツに宝物をかけてやる優しさもなかったため、十字架を捨ててしまった。結局それが決定的証拠となった。十字架が間違いなくフランツのものであったのを、警官たちが見ていたからだ。

 少年がなぜ十字架を手放し、金に変えなかったのかはわからない。ひょっとすると神はどんな人間にも平等に信じる心を与えるのかもしれないが、私はもう宗教と決別した身であったから、想像するしかなかった。

 被害者二人は同じ信仰を持つ少年を使い、死しても残る魂で犯人を示そうとしていた。でなければ説明がつかないのだ。国内のたくさんの浮浪児の中で、たまたま証拠品を拾った少年がささいな罪で捕まり、身分に似合わぬ十字架の存在に、あの若い警部補が気づいたわけが――。

 ドイル君、と呼ぶ声に顔をあげる。教授自身もこの仕事のせいで怪我が絶えないのに、私の包帯を見て彼は悲しそうだった。私は微笑んだ。

「頭がさらに良くなった気がします。教授の鼻っぱしらも折ってくれたし、僕は満足だ。あの魚料理以外は」

「――殴られて笑っているのは君ぐらいのものだ」

 いまなら弱っている自分を最大限に演出すればよかったと思う。そうすればまた膝枕、うまくいけばお姫さま抱っこは無理でも、横抱きの刑に処してもらえたのだが。――しかし。


 うつむいて目を閉じた教授の顔が、少し笑ったのでよしとしよう。


End.


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