【事件簿】


086)懐かしい音


 研究所への出入りは頻繁に行われた。

 博物館と図書館に入り浸る時間は特に多かった。シャーロックは壁画に興味をそそられたが、それは芸術的な感性や宗教への妄信からではなかった。

 時間が余ると実験室からは飛び出し、黄色く染まる空気で白衣を汚しながら下宿に戻って着替え、更にその足で劇場に行った。

 犯罪史の難しさは文献に画がないことだった。情景を想像し、歴史や地理を頭に置いて前後関係を構築するのはわけもない。

 言語学も必要なかった。暮らしてきた世界が他の研究生とはまるで異なるからだ。翻訳による不正確な表現に頭を悩ませるのは、教授クラスの人間に勧められる本に限られた。しかしそれだけだ。

 白と黒のインクを往復する言葉の世界に、色はない。脳への刺激はうるさいほどの思考に限られた。

 耳への栄養は、劇場の裏階段を降りていくと楽団から与えられた。

 より狭い控え室にかけられた大量の衣装を片手でさえぎると、懇意にしている女優のひとりに部屋へ引っぱりこまれる。鼻と唇と股関にくらくらするほどの興奮を得たら、残りの短時間でメイクを済ます。

 キスの最中にも図々しく「――出番まであと五分!」と入ってきた下男に慌ただしく着せかえられる。

 化粧の仕上げは老婆が行った。スカートのたわみと華やかなレースの糸に女が気をとられている隙に、男の口から「六時礼拝堂裏」ともれるのを聞き逃さない。髭やかつらは男がつけた。

 隠れ家での罰当たりな行為は、自分が望んだ側でのものではなかった。劇団員の八割は性根が女だからだ。整った容姿の者ほど異性にではなく不道徳とされるほうに走った。

「ウィリアム――ウィリアム!」

「あまり大きな声を出さないように」

「ああ……っ、あの、威張り散らした、腐った羊水の女と、どちらが」

 返答に困った。鯖をよんでいるのは間違いないが、彼女は実際よりかなり年上だといっているのだ。下男より最低でも三つは下だった。

 シャーロックは自分も偽名を使っているために、それについては黙っていた。

「もちろん君だとも」正直どちらも飽きている。「膝ではなく太ももを持つんだ。そう、その調子だ。もっと開くだろう」

 短く儚いダンスのような共演が終われば、食事をしにまた一人で街に出る。


 繰り返しだ。


 自堕落な生活をどこで聞きつけたか、長男のシェリンフォードがある日顔を見せた。おそらく告げ口したのは反対袖の楽団員だ。

 シャーロックは舞台下の楽団でもときどき末席の代役を任されていたが、これは楽団に所属していたことのある兄が、主催者と後援者に口利きしたからだった。

 劇薬の入ったフラスコで酒を呑もうとするので、さすがに慌てふためいて止める。冗談だ、と苦笑する瞼の下が、弟以上に荒れた生活を物語っていた。

「――シェリンフォード」

 兄の手は汚れていた。シェリンフォードは苦笑して、首を横に振った。

「大丈夫だ」

「阿片などには手は出していないだろうね」

 腕に開いた無数の穴が気になる。様子で大体のことはつかめたが、それ以上は無理だった。父や兄はマイクロフトや自分とは違い、観察力に特別秀でているわけではないが、感覚が鋭い。

「……大丈夫だ」

 上げた顔の目の色が、濁って焦点も合わずに弟を見つめる。

「コカインは」シャーロックはいいさして目を閉じた。「あれはいけない。わかっているはずだ」

 大丈夫だ、と三度繰り返した。虚ろになった瞼をゆらりとさせて、兄は遠くに視線をやりながらいった。

「これを持ってきた」

 シャーロックは差し出された楽器に息をのんだ。

「買ったのか」

「――盗んできたとでもいうのか?」兄は笑った。「ストラディヴァリウス。間違いなく本物だ。弾けるだろうな」

 シャーロックは椅子に座りこんだ。呆然として言葉をなくす。

「ああ……それが、もう」

「弾くんだ」

 俺のために、と背もたれに腕を預ける。

 シャーロックは一瞬迷って、楽器を手にした。手早く調律を行う指が、兄の神経に傷をつける。

 そこじゃない、と小さくノーを出した。

「兄さん。僕は」シャーロックはヴァイオリンを構え、息を整えた。「毎日をとても自堕落に過ごしてる。馬鹿みたいに時間を浪費しては、過去の犯罪記録や女や、何かの役に立ちそうにもない科学研究に夢中になっているのだ」

「女や。男に?」シェリンフォードは目をつむったまま笑った。「いいから弾けよ。聴いてやるから」

「酷いものさ。もう何年も、こんな……」

「シャーロック」

 頼む、と彼はいった。

 自分を見失っているのは、兄も同じなのだ。シャーロックは息を吸った。二小節で兄は耳をふさいだ。

「冗談だろう?」

「――役者としてはまあまあ売れてきた」

「馬鹿言うな。おまえが本心からしたいことはあれじゃない」

 シャーロックは驚いた。「まさか――今日の公演を見てたのかい」

「おまえを二度も驚かせることができたと、マイキーの奴に報告しなきゃな」シェリンフォードはいった。「見てはいない。だが、俺にだってわかるのだ。おまえやマイクロフトのことくらいは、その様子で」

 弟はおろした弦をもう一度構えた。

 演奏の途中で路上から罵声を浴びる。同じフレーズを繰り返し間違い、苛立ちを隠しながら先へと進んだ。

 繰り返し、繰り返し、波のようにうねりながら音の流れに乗る。兄はいつの間にか身を乗り出して、それを聴いていた。

「うるせぇぞ! どこのアホだ!」

 シャーロックは構わなかった。一小節同じような箇所のある違う曲を思いだし、そちらに切り換える。もう一度不快なヤジがとんだとき、兄は窓を開けて机の上の水桶を外へぶちまけた。

「おまえこそ黙れ――腐った耳など脳みそごと犬にくれてやれ」

 コックニーなまりで返す。兄は昔から言葉を操るのが得意だった。他国の言語も真っ先に覚えた。耳だけではない。すべてが優れていた。

 シャーロックは薄暗い気の沈む曲を延々と弾いた。苦情もそれ以上はなかった。

 静かな時間が流れた。遠い記憶の隅に残る、家族の思い出だ。


 ――失ったのは、母親だけではなかった。


「もういい。そこまでだ」

 シェリンフォードが一度手を叩いた。シャーロックが楽器をおろすと、兄は無言で彼を引き寄せた。

 離れている間にいつのまにか追い抜かれた身長差をものともせず、兄は下から口づけた。

「……っ」

 弟は躊躇った。シェリンフォードはシャーロックにとって、唯一の父親役とも言えたからだ。マイクロフトのような安心感はない。しかし、自分の人間として大事な面を預けられる最後の砦のような存在だった。

 兄は唇を離した。

「口を開けろ」

「シェリン……」

「大丈夫だ。おまえを食ったりはしないよ」

 唇と唇を合わせると、何か遠い昔の記憶が蘇ったが、シャーロックは目をとじた。

 兄は口とは裏腹に服を剥いだ。弟は抵抗した。酒に酔っているのならどう転ぶかわからない。兄の無精髭が顔を擦った。薄い色でほとんど見えない。

「ん……ぁっ」

 長椅子に倒され、取り上げられた楽器をテーブルに置きなおす。服の下から順に擦られ、股ぐらをつかまれ押しつぶされながら喘いだ。

「よせ……っ!」

 シェリンフォードはやめなかった。直に手を入れる。握りしごかれ、シャーロックは反射的に誰かを探した。

「父さ……」

 すべてがピタリと止まった。

 部屋は静寂に包まれた。シャーロックは兄の顔を見たが、蒼白で苦痛に歪んだ様子に、また目をそらした。

 弟は勃ちあがった己を兄の手を使い慰め、残りを終えた。兄は弟の残滓で汚れた手を気にもとめず、ただじっと弟を見ていた。

「すまない」兄はささやいた。「……俺は知る必要があった。おまえやマイクロフトは隠すのがうますぎる。俺には、こうするしか」

「謝るのは僕のほうさ」シャーロックは荒い息で顔をそむけた。

「シャーロック。どうして俺の所に来なかった。俺は手紙を出したはずだ。何通も。何通もだ。……どうして!」

「そのときはすでに遅かった」弟はいった。

「ゆるしてくれ。僕を赦してくれ、シェリンフォード」

 兄弟は抱き合った。虚空を虚ろに見つめる四つの目は、どちらも色がちがった。


 シェリンフォードは遠くを見ていた。


End.


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