【企画】


『シャーロキアーナとホームジアン』



 まだ少年だった。

 吃音の傾向がある上に、体も弱かった。頭の中の言葉を組み立てる間は、ただ静かに黙りこくっている。そのうち子供たちの輪からは外れてしまった。

 さみしさを癒すため本を手に取り、毎日机の前に座っていた。大人たちは行動力のある子供を賞賛していたので、そのようにやってみようと無駄とは知りつつ努力もしてみた。

 消極的なわけではない。ただ隣の少年に歩調を合わせると息が苦しい。少年にはそれを説明することさえできなかった。

 頭も体も遅れをとってしまった。身長だけが伸びて、棒のような手足をしていた。熱い湯で体を洗うと、消耗した体力のせいで一日中寝込んだ。

 少年の世話に疲れた母親は精神を病んでしまい、父親のほうは忙しさを理由に二人を省みることはなくなった。


 陳腐な言い回しだが。

 孤独だけが、少年の唯一の友達だった。


 顔色も悪く無愛想な少年を、子供たちは気味悪がった。どこで覚えた言葉だろう。『高尚さま』と名づけられた。うまいこと言うじゃないかと少年は内心ほくそ笑んだ。

 高尚さま。ぼくにもあだ名ができたのだ。

 少年は嬉しかった。子供たちが自分のことをどう思っていようが、それだけが真実だった。好きの反対が嫌いでないことを知っていた。

 彼は何度も自分につけられたあだ名を練習した。「こ、こ、高尚さま。高尚さまだって! す、すごいや!」


 家は静寂に包まれていた。


 少年は帰り道にスキップを踏んだことで、また熱を出した。そしてそのまま幾日も過ぎた。

 父親は母親を責めるでもなく、少年をいたわるでもなく、ただ関心がなさそうに見えた。医者を呼んだ、と一言残して翌朝仕事に出かけた。

 仕事ではないのだろうと少年はぼんやり思った。母親は荒れ狂って家中の物を投げ、少年を責めた。一言も覚えていない。覚える能力がなかった。それさえなかった。

 震える指が首にかかった。泣かないで、と少年は心の奥でささやいた。


 泣かないで、母さん。

 期待どおりにできなくて、本当にごめんなさい。

 もう苦しまないで。ぼくは大丈夫だから。


 扉が開いた。筋肉質で頑丈そうな紳士が立っていた。

「シャーロキアーナ! 手を離せ――エリックの目を見るのだ」

 母親ははっとして、少年の首にかけた手を緩めた。親子は見つめあった。エリックは母親に向かって痩せ細った腕を伸ばした。

 母親は少年をじっと見つめたまま後ずさり、謝罪の言葉もなく部屋を出ていった。

 医者は少年の首と胸をまさぐり、咳き込むほど強く絞められたわけではないことを確認してから、彼女を追いかけようとして一度立ち止まった。

「彼女が落ち着くまで、傍についてやらねばならん。彼をしばらく見ていてくれ、ウィリアム」

 エリックは、自分と同じ年頃の少年が部屋の隅に立っていることに気づいた。

「わかりました――先生」

「窓を開けるのだ。全開にしてはいけない。呼吸がおかしいと思ったらこれで」ステッキを手渡す。「床を叩け。わかったな」

 後には医療鞄を持った少年が残された。窓を少しだけ開ける。

 冷たい目つきがすこぶる悪いが、整った顔立ちをしていた。君はだれ、とエリックは口だけ動かし言った。

 何も返さない。沈黙は心地よかった。

 ウィリアムと呼ばれた少年は、机に置かれた本をじっと見ていた。エリックは彼に、椅子をすすめたかった。

「き。きみ、誰。――ぼく、ぼくは」

 緊張からひどくなった吃音で、エリックは赤くなる首を反らした。少年はこちらを見ていない。

「高尚さま。だろ」少年は本をにらんだまま言った。「きみ、ホームズが好きなのか。シャーロッキアンの家系かな」

 エリックは恥ずかしさにかあっと赤くなった。同じ学校か。少し長めの茶色の髪に見覚えはない。ウィリアムは返事を待たずに言った。

「この翻訳はいまいちだ。でも日本語が読めるなんてやるじゃないか。一人称だけでいくつもあるから、かなり難解な言語だ。おれは今ドイツ語を勉強してるけどね。ホームズは最低六ヵ国語できた」

「あ、あの……。あ、あ、うん……」

「もっとはっきり話したまえ。ほら、探偵のように」

 エリックはうつむいた。ウィリアムは本を手に取り、パラパラとめくった。

「喋りたくないなら黙ってろ。めんどくさくなくてこっちも助かる。でも言いたいことがあるなら別だ。ここにノートが置いてある。君の利き手はインクで汚れている。本にも印が。何日寝込んでいても、かかさない習慣のためだ。君は人物録や年表を自分で書き起こすようほどのファンだと推測できる」

 ウィリアムは流れるように話した。饒舌すぎて遮れない。

 噛み合わない視線が人の反応を拒絶している。まるで歌でも歌っているようだ、とエリックは思った。あるいはヴァイオリンの音色。

「……っ。は、は、話せって、言わ、れても」エリックは痛いほどの視線から逃げた。「わか、わからないだろ。き、きみ、君は! 君の……ッ、君のような人には!」

 重いからだを起こして掴みかかった。痩せ細ったエリックに引っ張られ、床に押さえつけられたウィリアムは目を丸くした。とっさに表紙の擦りきれた本を守ったその腕を見て、エリックは身を縮めた。父親からもらった本だった。ほとんど唯一の宝物だ。

「おれのような? 今日会ったばかりだ」

「そ、そ、そうさ。でも、ぼくの……っ、ぼくの、ことを知ってた」

「ああ――だって君は」ウィリアムは馬乗りになったままの相手を見上げた。「かなり目立つから。黒い髪も、青い目も、身長も、声も」

「馬、鹿に……っ」

 か細い声を聞いても、相手は動揺しなかった。指が前髪をさらっと掻き分け、額を撫でた。エリックはかたまった。

「口を開く前に、数字を数えるといい。初めはゆっくりと」

 落ち着け、と繰り返す。

 とん、とん、と階段をのぼってくる音に、エリックは身を縮めた。ウィリアムは言った。「ほら、階段だ。四、五、六。数えて」

 エリックも数えた。ウィリアムは彼の両肩を押して、体を起こした。彼はそのとき初めて知った。自分の家の階段の数が、十七段であることを。

「なんとか落ち着いたようだ――ん?」医者は床に座り込む二人を見た。「どうした。何があった」

「彼がベッドから落ちたので、支えようとしてバランスを崩しました。ドクター・ドイリアン」

 もうずいぶん長く聞いていない、珍しい称号にエリックは驚き、医者を見た。

 ウィリアムの言いわけに医者は眉をひそめたが、それ以上は聞かなかった。医者は彼をベッドに戻した。力強い肉体を持った大男だ。優しい笑顔で警戒心を解く。

 その腕に抱かれたとき、少しだけ懐かしい匂いがした。

「エリック。覚えていないだろうね。私は君のお父さんの友人で――幼いころに一度会ってる」

 熊のような体に似合わず、顔は小動物そっくりだ。ご近所が飼ってた犬を連想させる。

 エリックは深い灰色の眼差しから目をそらした。初めての医者というだけでも気が気でない。

「うそ、だ!」エリックは勢いあまって咳き込んだ。背中を撫でる手を振り払う。「と、父さんに……父さんなんかに、ゆ、ゆ、友人が!」

「エリック。数えろ」

 ウィリアムの声に、息をすぅっと吸い込んだ。階段の代わりに素数を数える。

「……友人が、いるわけがない」

 医者は丸い目をぱちぱちとさせて、二人を見比べた。そして苦笑した。

「まあ確かにホームジアンは、つき合いやすい男ではない。しかし、君たちはもう友達みたいだな。素晴らしい」

 エリックは、冗談ではないと一瞬思った。ウィリアムは無言だ。彼は口数の多いほうではないのかもしれない。ほとんど表情を動かさなかった。

 医者が飲ませる薬を飲み、聴診器を当ててくる。深呼吸しろという声を遠くに聞いた。ウィリアムは部屋の隅にある椅子に座り、ノートを手にとってこっちに表紙を見せてくる。

 開くなという抗議のつもりで頭を動かしたが、肯定に取られて開かれた。これが二人の出会いだった。







 シャーロキアンは思い出話を聞きながら、椅子に腰かけるホームジアンの髪をいじった。

「うん。すごく君らしいよ。偉そうに講釈垂れそうな雰囲気といい、勝手に人の覚え書きを見てしまうところといい。でもシャーロキアーナのほうも意外だったな。だって彼はそれほど身長も……って、あれ? ……え?」

「目も悪いのか。俺の髪は何色だ」

「――」

「人間の二面性についての講義はまた次だ。……お、おい。なにを抱きついてる! 男のくせに、な、泣くな気持ち悪い。や、やめっ。………………………、数えてない。数えてないぞ! 離せ、シャーロキアン! 俺のタイで鼻水を拭くな!」



End.


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