【京極堂】


『中禅寺家の秘密(後編)』



これが澄まし汁、と出された椀には全く具がない。



変だなと首を傾げる秋彦に、これはもの凄く美味しいから食べて頂戴、と千鶴子がすすめる。

白湯のような汁を一口啜ると、秋彦は泣き出してしまった。


「旨い。なんて旨いんだ!」

「まあ、よかった。今日から毎日作りますからね」


秋彦はたくさんお代わりをして、自分はなんて幸せな男なのだろうと考えた。

看板娘の千鶴子が来てからというもの、店は繁盛して賑わいを見せている。

午前中の店番は千鶴子に全て任せた。

秋彦は本の買い付けを余儀なくされ、出無精にも関わらず毎朝、隣村まで本を買いに行ったのだ。

疲れて帰ると、この世の物とは思えぬ澄まし汁が待っている。

しかもこれを飲むようになって、秋彦の体力は段々と強くなっていった。


「この汁は凄く美味しい。一体何でダシを取っているのですか?」

「それは......秘密ですわ」

「貴女が居なくなってからでも、貴女の味を思い出せるようにしておきたいのだが」


秋彦は一生分の勇気を振り絞って云ったが、千鶴子はころころと笑って、まだ行きませんわと囁いた。

美しい人は気まぐれだからと、秋彦は期待せずにいたが。

来る日も来る日も秋彦の傍には千鶴子がおり、隣で眠るだけの同居生活は続いた。

夫婦にならないか、と一言云えば、すぐ従ったに違いない。

秋彦は千鶴子に想いを寄せていたし、千鶴子もまた好かぬ男の傍らには居ない筈なのだ。

ただひとつだけ、どうしても気になることがあった。

近所で噂が広がっている。秋彦が留守の間、艶めいた女の声が古書店・京極堂から聴こえてくるというのだ。

女のひとり遊びでもおかしくはないが、秋彦が帰ってくると千鶴子は確かに美しさを増している。

肌や髪が濡れそぼち、頬が上気してけだるげな様子なのだ。

男をこの家に連れ込んでいる可能性を考えると、嫉妬で胸が裂けそうになった。

かといって、夫婦の契りを交わしたわけではない。不貞だなんだと責めるわけにもいかない。

秋彦はある日思い立って、隣村へ行くふりをして家の裏庭に身を潜めた。

朝っぱらから千鶴子の美しい顔を一目見ようと、村中の男がやってくる。


(あの中の一人か?うっ、関口君や榎さんもいるじゃないか!最近たまに千鶴子のご飯を食べに来るんだよな......)


秋彦が気を揉んでいるとも知らず、昼近くになると千鶴子は『骨休め』の看板を立てかけ、家の中に入ってしまった。

炊事をしている音が響く。

大鍋を外に取りに行く以外、なんら変わった様子はないのだが。

唐突に噂の声が聴こえ始めた。


「あっ。アッ、あ〜ん。あっ、厭だ。アアッ」


秋彦はその声が間違いなく千鶴子のものだと知って、不安になった。

男が居るのはわかった。問題は、その男に千鶴子を捕られてしまうのではないかということだ。

秋彦は千鶴子に惚れきっていたから、体を満足させてやれない女が、他の男になびくのも無理はないと感じていた。


「あふう。あふ。だっ、だめよ。我慢するのよ。すべては秋彦さんのため......アアン!アン、あん」


聞き捨てならぬことを聴いた気がする。自分のため?まさか誰かに脅されて行為に及んでいるのだろうか。


「アッ、アッ、もうだめぇッ。イヤァ!ああっ、ああああっ!!」


秋彦が意を決して家の中に入ると、千鶴子の声が一際高い声で叫んだ。


熱い〜〜〜〜ッッっ!!!!!


はたと見るとそこには、グツグツと煮えたぎる大鍋があり......真っ赤になった蛇が浸かって、ぐったりとしていた。

秋彦は何があったか即座に理解し、蛇を鍋から取り出す。

石畳に寝かせて団扇で扇ぎ、頼む、頼むから死ぬな千鶴子と声をかけた。

すると少しずつ体の色が戻り、蛇はうっすらと目を開けた。


「あなた......秋彦さん......」

「貴女が――――蛇だったのですね」


秋彦がそう云うと、白蛇はみるみるうちに白く美しい女の姿に変わった。

千鶴子はこくりとうなずき、失敗してしまいましたと笑う。


「火加減を調節するのが難しくって。お見苦しいところを見せてしまいましたわね」

「何故、こうまでして僕のために澄まし汁を」


千鶴子は女の姿で秋彦に抱き、頬を染め。

上目使いにこう云った。


「あなたの澄まし汁の味が忘れられなくて」


秋彦はひしっと千鶴子を抱きしめた。

蛇のダシ汁は滋養強壮に良く、体の機能を強くし、性の力も増す効果があると云う。


「秋彦さんったら、すぐに抱いてくださらないんだもの」

「......これを知ってしまったからには、もう此処には居てくれないのですね」







千鶴子はころころと笑い、化け蛇でよければいつまでもあなたの傍に居させてください、と云った。










□□□


あんまり夜遅くまで本を読むものだから、母はキレて僕を祖父に預けた。


京極堂は七歳の僕には恐ろしい場所で、できることなら京じいと二人きりだけは嫌だと思っていたのだが。

願いも虚しく布団を隣り合わせに敷いて、やれ真っ暗な中でもう寝るかと背中を向けると。


「――――秋雄。昔話をしてやろう」


今なら断固拒否だってできる京じいの熱弁(と称した雑音)も、その頃はじいさんが怖くてやめてと言えなかった。


京じいは唐突に語り始めた。


(秋雄、そろそろ知っておいたほうがいい。龍彦は男同士の会話など一生しないだろうし、夕紀子さんから頼まれたのだ。黙っておじいちゃんの話は聴きたまえ。僕も君の年まではそうしていた)


死神のように痩せ細った秋彦が太り始めたことから、村中で千鶴子の澄まし汁が話題となったそうな。

その後、子宝に恵まれた中禅寺家の話を、僕は結構大人になるまで信じていた。


「じいさん。秋彦が飼ってた猫はどうしたの?」

「............」

「じいさん?」


千鶴子おばあちゃんが食べてしまったのさ、と祖父は囁いた。





それゆえ僕は猫が苦手になってしまったのだ――――もちろん蛇もである。








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